'16ネパール編

 18回目のネパールは9ヵ月ぶりの訪問。

 前回訪問時は大地震に加え、新憲法に反対する南部の人々によるデモと国境封鎖により、 インドから入って来る物資が欠乏し、日々の暮らしもままならない状況であったが、 国境封鎖が解かれて半年が経過した今回の訪問では街の様子は一変。 首都カトマンズでは地震以前にも増して街を行き交う車の量が増え、 交通渋滞は過去最悪の状況に。また市内を走るタクシーにこれまで見たこともなかったヒュンダイの新車が多数参入。 長年マルチスズキ800の埃にまみれて黒ずんだシートに慣れ親しんできた私にとって、 ヒュンダイの新車のレザーシート(たぶんフェイクレザーだが)に腰を下ろした時の衝撃はかなりのものがあった。

 更には地震で1年開業が遅れたシンドラギリケーブルカー(ロープウェイ)も、カトマンズ盆地西部のシンドラギリの丘に開通。 地震によって一時止まっていたこの国の時計が再び動き出したのだという実感を強く持った。

 一方で地震からの復興状況は、ところどころで新しい建物が建ち始めているものの、 亀裂の入った家やトタン造りの仮設住宅、さらにはテント生活を続けている人々もまだ多数おり、 経済力のある人たちと無い人たちとの間で二極化が進行しつつあると感じた。

 今回の活動ではカトマンズのそのような動きからは全く取り残された状況にあるネパール南部のカジャララマオル村で で無料医療キャンプを開催。この村は2年前に同じく無料医療キャンプを行ったスガニカス村とは20キロぐらいしか離れておらず、 ともに半年間続いた新憲法反対のデモ活動が激しかったエリアに属する村である。デモの前後でこの地域がどう変わったのか、 特に反政府感情が実際に住民の間にあるのかどうかにも関心を持って現地に行ってみたのだが、 実際には人々の暮らし向きも住民の心にも何ら変化はなく、 結局のところ憲法反対のデモは一部の政治勢力が過激な行動に出たもので、 必ずしも住民の支持を得たものではなかったとの確信を得た。

○日   程:2015年9月18日〜9月24日
○主な活動先:?パタン市/ホライズン・イングリッシュ・スクール、ディニシャちゃんの自宅、ニハリカ・パブリック・スクール ?バグタプル市/筋ジストロフィー・ケア・ソサエティー、 ?ダヌシャ郡カジャラ・ラマオル村/ジャナタ小学校、 ?カトマンズ市/ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラム、 ?カトマンズ市/サンリサ・オーファネッジ・ネパール


ディニシャちゃんとの再会?

ネパール到着後の最初のミッションは、学費の全額支援を昨年から行っているディニシャちゃん、ビブティちゃんとの再会と 二人が通う学校を訪問しての学費の納付であった。 ところがビブティちゃんとは行き違いがあり、この日は会うことはできず。再会できたのはディニシャちゃんのみとなった。 彼女の自宅を訪問するとまだ学校にいるとのことなので、学校のほうへ行ってみることに。 彼女の学校の校門には何と成績優秀者の顔写真と名前がデカデカと掲げてあった。 某国では数年前までゆとり教育なんてことをやっていたけど、この国は小学校でも落第があるしとても厳しい。

ディニシャちゃんとの再会?

ディニシャちゃんの通うホライズン・イングリッシュ・スクールの校長室を訪れ、 1年分の学費36,422ルピー(≒36,000円)を納付。学費の中には制服代や放課後の補習授業代なども含まれている。 この費用は私のポケットマネーで対応。 校長先生の話によればディニシャちゃんは放課後の補習授業に毎日参加し、まずまずの成績を修めているとのこと。 左端から、校長先生、ディニシャちゃん、私、このミッションをコーディネートしてくれたスニル、ディニシャちゃんのお母さん。

ディニシャちゃんとの再会?

学校からは目と鼻の先のディニシャちゃんの自宅に移動し、日本から持参したプレゼントを手渡す。 プレゼントの中身は鉛筆、ボールペン、サインペン、色鉛筆、消しゴム、下敷き、ノート、衣類とMさんからお預かりした レターセット。 最後にご家族と記念撮影。アル中で入院していたお父さんは、1月にお会いしたときにはお酒を止めたと言っていたが、 スニルによれば最近またお酒を飲んでいるとのこと。ディニシャちゃんが学費を払えなくなったのはお父さんが アル中で入院したことが原因なので、とにかくしっかりしてもらいたい。

ディニシャちゃんとの再会?

地震で亀裂の入ったディニシャちゃんの家は1年前とまったく変わらず。 市の検査機関からは以前から危険なので建物から出るよう言われているが、行先もなく修理するには100万円近くかかるそうなので、 この家の今の経済状況では難しい。やっぱり、お父さんに地道にまじめに働いて もらうしかない。お酒なんか飲んでいる場合ではない。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて

10年以上訪問を続けている筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーを今回も訪問。前回の訪問以降、 2月に病状の悪化により一人がお亡くなりになり、地震後しばらく自宅に帰っていた子供が復帰して、 メンバーは会長さんの息子を含む3人。10年前は確か8人ぐらいいたと思うので淋しくなりました。 会長さんに3万ルピー(≒30,000円)を寄贈。東京のNさんからお預かりした支援金を充当させていただきました。

バクタプル市内にて

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーを訪問した後は、地震で大きな被害を受けたバグタプルの街の復興状況を視察。 新たな建物が建ち始める一方で、地震からそのまま放置された状態の場所もまだたくさんあった。 地震直後には至る所にあった中国語の書かれたテントもかなり少なくはなったがまだ残っていた。 もう地震から1年半になるが、この間ずっとテント暮らしなんて想像もできない。

南へ?

今回の最大のミッション、ネパール南部の村での医療キャンプへ向けて、カトマンズ市内で医薬品などを大量購入。 これを古〜いランドクルーザーに満載して開催地のジャナクプル市郊外のカジャラ・ラマオル村へ向かう。 この村は2年前に医療キャンプを開催したスガニカス村から20キロぐらいしか離れていないが、貧しい人たちが 多いエリアなので、今回も2年前にご協力頂いたジャナクプル市の医師たちの協力を再度得て開催することにした。

南へ?

2年前の移動ではカトマンズからジャナクプルまで実に11時間もかかったのだが、 今回は昨年3月に全線開通したドゥリケル・シンドゥリ道路(通称BPハイウェイ)を使って7時間で到着。 このネパール南部とカトマンズ盆地を結ぶ第二のメインルートは、 日本政府が資金援助し日本の建設コンサルタントが調査から完成まで関わって完成させたもの。 90年代前半に工事を開始したものの、難工事の連続だったうえ、政情不安から内戦状態に陥り、 何度も工事がストップ。様々な困難を乗り越え開通に漕ぎ着けた代物である。
ネパールの道路は幹線道路であっても擁壁などがあまりなく、雨季には土砂崩れが頻発し、 度々通行止めになるのだが、このBPハイウェイには側溝と擁壁が全ルート160キロにわたってきちっと整備されている。 更にはネパール人の手でその後のメンテナンスが出来るよう、建設資材は全て現地で手に入るもののみを使い、 また管理が難しいトンネルは一つもない。そのため、ルート全体を通して坂道とカーブの連続にならざるを得ないのだが、 開通直前に起きたネパール大地震ではほとんど被害を受けることなく、その後の物資輸送等で大きな役割を果たしたとか。

カジャラ・ラマオル村へ

この地方の中心都市ジャナクプルからカジャラ・ラマオル村へ向かう道は、街を少し離れると 道路のど真ん中に大きな水溜りがあったりぬかるみがあったり。ぬかるみの横には転倒した荷車が荷物ごと放置されているありさま。 もともとこの国のインフラは脆弱ではあるが、平野が広がるこの地域なら道路整備も山間部ほど手間はかからないはず。 インドにも近いので道路さえ整備されればこの地域の発展の可能性はすごく高いと思うのだが。 にもかかわらず道路整備がろくにされていないのは、カトマンズの中央政府の意図によるものなのか、 ただ単に国内に整備すべき道路が多すぎて手が回らないだけなのか。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

医療キャンプの会場となるジャナタ小学校へは予定していたキャンプ開始時刻の1時間前に到着。 しかしすでにかなりの数の村人が始まるのを待っており、2年前のスガニカス村での医療キャンプ同様、 さばききれないほどの村人が受診にやって来るのではないかとの予感。 既に日差しは強く、気温は30度を超えていることが確実。待っている間に体調を崩したりしなければいいのだが、 ただ見た感じでは村人たちの多くは暑さなど意に介すことなく、何だか楽しそうに待っている様子。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

ジャナタ小学校到着後、設営、朝食を経て医療キャンプを開始。まずは受付に男女別に並んでもらい、 順に症状を聞いたり血圧を測ったりした後、それを紙に書いて患者に手渡しし、 症状に応じた専門医のいる教室へ行くよう指示する。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

こちらは小児科の教室。まだ立つことのできない乳児は写真のようなはかりで、 自立できる小児はヘルスメーターで体重を量ったあと、小児科医の診察を受ける。 小児科医といえば優しそうな先生をイメージしたくなるのだがが、この先生はあまり愛想もなく、 太っているせいかかなりの汗をかきながら淡々と診察をこなしていた。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

こちらは歯科の教室。毎回活動に参加してくれているアマルと、 昨年のヌワコットでの医療キャンプに続いて2回目の参加のロッキーが歯の診察を担当。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

歯科を受診した患者には歯ブラシをプレゼント。 この後、歯ブラシがもらえるのを外で見ていた子供たちが、 歯ブラシ欲しさに歯が悪くないのに次々と受診にやってくる事態となったので、 途中から子供たちには無条件でプレゼントすることとした。 この歯ブラシは愛知県のとある私立高校の生徒会の皆さんが集めてくれたもの。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

内科は多くの患者が予想されるためか二人の医師が診察を担当。 さらにもう一人看護師?が補助する体制。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

左側の写真は外科の診察。外科というより皮膚科かな。右側の写真は骨の医者。日本でいえば整形外科だろう。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

左側の写真は眼科の診察。右の写真は婦人科の診察室だがさすがに診察中の写真撮影は憚られるので、 離れたところから撮影。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

テレビ局のカメラマンの突然の取材を受ける。それも現地のローカルテレビではなく全国放送のテレビ局とのこと。 診察の模様を撮影するだけで終わればよいものを、ウッタムが私をカメラマンに紹介してしまったため、 急きょ私もインタビュー撮影を受けることに。 最初は日本語で喋ってウッタムに通訳してもらっていたのだが、英語で喋ってくれと言われ、 しどろもどろのかなり残念な英語でのインタビューとなってしまった。 最初から取材があると分かっていればもう少し準備してきたのだが。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

各専門医の診察を受けた患者は、診察した医師が書いた処方箋を持って最後に薬局の教室にやってくる。 その処方箋に従って処方薬を配布。この処方薬ももちろん無料。 今回の医療キャンプはカトマンズからの交通費やジャナクプルでの宿泊費、 食事代などすべて含めて当初18万ルピー(≒173,000円)の予算で準備を始めたのだが、 話を詰めていく過程でこの処方薬の予算がどんどん膨らみ(7万ルピー→158,000ルピー)、 最終的には284,000ルピー(≒273,000円)もかかることとなってしまった。 そのため当初計画していたジャナタ小学校の生徒への学用品の配布を取りやめにしたりと、 何度もやり取りをして予算圧縮に四苦八苦。 本当は学校の子供たちにも鉛筆やノートなどを配りたかったのだがそれができなかったのは残念。 開催費用は東京のNさんからお預かりした資金と、出発前に日本で開催したカレーパーテイーの売上の一部に 私のポケットマネーを充当。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

今回の医療キャンプも地元警察にご協力いただく。もちろん警備していただくためだが、 実際は暇そうに座って話をしているだけ。だけど彼らが暇ということは何も問題がない証拠。 医者が大勢集まっているうえに日本人もいて、 さらに高価な医薬品まであるとなると不心得な輩がやって来ないとも限らない。 実際は銃を持った警察官の存在がそのような不心得者を寄せ付けなかったのかもしれない。 診察を受けにトータルで1050人もの村人がやってきたのだが、喧嘩になることもなく秩序を維持できたのも、 彼らがいてくれたことと無関係ではないと思う。

カジャラ・ラマオル村ジャナタ小学校にて?

朝10時から始まった医療キャンプ。1050人もの村人を診察し、日が西にかなり傾いたころ無事終了。 小学校の生徒たちに学用品を配布することはできなかったけど、 生徒たちに使ってもらうためにカトマンズで買ってきたサッカーボールなど様々な物品を寄贈。 お返しに感謝状とこの地域に多く住むミティーラ族が描いたミティーラアートの絵画をいただく。 感謝状は私だけでなく今回の医療キャンプに参加した医師、看護師、スタッフ全員分が用意されており、 それを受け取る一人ひとりの表情がはにかみながらもどことなく誇らしげなのが印象的だった。

ビブティちゃんとの再会?

数日前にビブティちゃんに会いにの小学校を訪ねたときにはもう帰ってしまって会うことができなかったので、 今度は時間を変え朝に再びスニルと小学校を訪問。 スニルが校庭で遊ぶビブティちゃんを見つけ声をかけるも私には別人のように思えたのだが、 改めて目を凝らすと紛れもなくピンクの縁の眼鏡をかけたおさげ髪のビブティちゃんだった。 ビブティちゃんは、9か月前にはお父さんの実家(両親は離婚)から学校に通っていたのだが、 今は再婚したお母さんの家からスクールバスで30分以上かけて毎日通っているとのこと。 数日前はそのスクールバスの出発時刻より後に我々が行ったので会うことができなかったというのが事の真相らしい。 ビブティちゃんにもディニシャちゃん同様、日本から持参した鉛筆、ボールペン、サインペン、色鉛筆、消しゴム、 下敷き、ノート、衣類とMさんからお預かりしたレターセットをプレゼント。

ビブティちゃんとの再会?

ディニシャちゃん同様、校長室で1年分の学費35,690ルピー(≒35,000円)を納付。 ビブティちゃんは昨年9月に初めて会ったときには、学費が払えず1年間学校に通っていなかったのだが、 通常より学年が1年遅れているものの今ではすっかり学校に馴染んで、特に算数の成績はとても優秀とのこと。 ただ帰りのバスの時刻の都合でディニシャちゃんが受講していたような放課後の補習授業は受けていないそうで、 スニルとビブティちゃんの叔母さんがその点を心配して、 学校のすぐ近くのお父さんの実家に戻ったらどうかと勧めたところ、 ビブティちゃんは目に涙をいっぱい溜めて今にも泣き出しそうな表情になってしまった。 スニルによれば、お父さんの実家にいてもお父さんは麻薬中毒の治療で入院したまま戻ってきていないし、 お母さんはまだしも、お母さんに引き取られた2歳になる弟とどうしても一緒に暮らしたいとのことで、 これ以上お父さんの実家に戻ることを勧めるのは止めにした。 私からはもし補習授業を受けたくなったらその分の費用も払う用意があることだけビブティちゃんに伝えた。 写真左よりスニル、私、ビブティちゃん、校長先生、ビブティちゃんの叔母。

シンドラギリケーブルカー

カトマンズ盆地の西部シンドラギリの丘にシンドラギリ・ケーブルカー(ロープウェイ)が開業。 このケーブルカー、本来なら昨年開業予定だったのだが、大地震の影響で1年遅れの開業。 とはいえあれだけの大地震があってよく開業にこぎつけたなあというのが正直な実感。今回、早速乗車してきた。 乗車当日は平日の午後ということもあり、行列ができるほどの混み方ではなかったが、 新しいレジャーを楽しもうとするカトマンズ市民が次から次へとやって来てなかなかの賑わいであった。 終点付近はシンドラギリ・リゾートとして将来は5つ星ホテルなどの建設が予定されているが、 今のところは喫茶店が1軒と造ったばかりのお寺と子供向けの遊具がいくつかある以外は何もない。 乗車料金は往復で700ルピー(≒700円)とこの国の物価を考えると決して安いとは言えない。 (余談だが外国人の料金は1人2,200ルピーと設定されており、あまりの差別にかなりムカついた) でもカトマンズ盆地が一望できるこの丘にやってきた市民たちの表情はとても楽しそう。 まだレジャーどころではない市民も大勢いるが、ケーブルカーの開通には、 今日より明日が良くなるという希望の象徴としての意義もあるのではないだろうか。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

恒例となったサンリサ孤児院の子供たちによる音楽会と軽食の配布。 今回もカトマンズ市内パシュパティナートにあるソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムで開催。 到着早々、赤い衣装に身を固めた一団がいたので我々より先に何処かの舞踊団でも来ていたのかと思ったら、 サンリサ孤児院の女の子たちだったことにまず驚く。お化粧して民族衣装に身を固めると遠目からは全く別人です。 今回のプログラムは楽器の演奏と鮮やかな衣装に身を固めた彼女たちの踊りを交互に交えて進行する。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

まずはサンリサ孤児院の子供たちによる音楽の演奏でプログラムはスタート。 今回が5回目ということもあり、もうすっかり安心して見ていられる。 開始早々、いつものように踊り好きのおじいちゃん、おばあちゃんが踊りはじめ、いい雰囲気で音楽会は進行。 ただ気になったのが、第1回目の開催以来毎回素晴らしい踊りを見せてくれていたおじいちゃんが今回は姿を見せなかったこと。 9ヵ月前の音楽会では遅れてやってきて1〜2曲踊っただけで随分息切していた様子でそれが気にはなっていたのだが、 どうしてしまったのか心配だ。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

今回のプログラムを何より盛り上げてくれたのは、サンリサ孤児院の女子チームによるダンス。 音楽にのせて、色鮮やかな衣装をひらり、ひらりとなびかせながら舞う彼女たちの姿に誰もが魅せらた。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

今回大活躍だったのがサラソーティ、ビンドゥ、アニシャ、ラミタの4人。 彼女たち4人は楽器の演奏にダンスにフル回転。暑さの中、途中ちょっとした隙間の時間で水分を補給。 この日は日差しもあって本当に暑い1日でしたが、最後までプログラムを盛り上げてくれました。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

プログラム終了後はダンスを披露した女の子たちの周りに多くの観衆が集まり、握手を求めたり、言葉をかけたり。 今回の主役は紛れもなく彼女たちでした。 演奏のほうでは大活躍した男の子たちも今回ばかりは主役の座を彼女たちに奪われ、何となく手持無沙汰な様子。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

音楽会の後はこれもいつものように軽食の配布。 配布したのはりんご1個、バナナ1本、ビスケット一包み、ジュース1パック。 これを袋に入れて全230人に配布。列に並ぶことのできないご老人にはこちらから届けに行く。 さらに余った分は施設の外のヒンズー寺院の参道で物乞いをしている人たちに配布した。 音楽会開催と軽食の購入に要した費用50,620ルピー(≒5万円)は私のポケットマネーで対応。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

今回の音楽会にはサンリサ孤児院の卒業生第一号のキランも来てくれました。 軽食の配布時には積極的に手伝ってくれてとても助かった。 昨年9月に彼と8年ぶりの再会を果たしたことは'15秋ネパール編 の「ダダ村にて?」に書いたとおり。昨年はツーショット写真を撮り損ねてしまい、 帰国後すごく残念に思っていたので、今回こそはと2人で記念撮影。 彼のようにいきいきしている卒業生を目にするのはとても嬉しいが、 残念ながらすべての卒業生がそううまくいっているわけではない。 (詳しくは'12ネパール編の「スリジャナ・サンディプ姉弟との再会」を参照)

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムでのプログラムを無事やり遂げ、 レストランで全員に昼食をごちそうした後は、サンリサ孤児院に移動して午後からのまったりした時間を過ごす。 サンリサ孤児院とのお付き合いも丸9年が経ったので、 これまで撮り溜めた写真で作ってきたフォトアルバムをプレゼント。 9年前ずっといる子供もいるので、小さかった頃の自分たちの写真を見て大騒ぎ。 夜はサンリサ孤児院で夕食をごちそうになりました。

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

いつものように最後にみんなで記念撮影。 9年前にはみんな小さかった子供たちだが、今では中学校を卒業して看護学校に通う子供も出てきて、 時の流れを感じる。 サンリサ孤児院には30.000ルピー(≒3万円)を寄付。 寄付金は岐阜のIさん、日進のFさん、名古屋のMに私のポケットマネーをプラス。

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