'15秋ネパール編
ネパール大地震発生後、年内に3回現地を訪問することを宣言し、今回はその2回目。
前回7月の訪問では、これまで継続的に支援してきたカトマンズ盆地内の施設を中心に周ったが、今回は、カトマンズ盆地を出て、
地震で大きな被害が出たとされる地方へ足を運んだ。
そのひとつ、カトマンズの東方約80キロのチャリコットは、5月12日の最大余震の震源地に近く、
8割以上の住民が住む家を失ったとも言われる場所。そこからさらに30キロ山道を進んだバインセ村のサルダ第2学校で学用品を配布。
またカトマンズ盆地北西40キロのヌワコット郡ダダ村では、医師、歯科医師、薬剤師、看護師などの協力を得て、
無料のメディカルキャンプを開催した。
さらに、貧しさゆえに学費が払えず退学の瀬戸際にある2人の小学生の自宅を訪問。今後、
長期的に学費の支援を行って行くことを決めた。
今回の地方訪問では、事前に聞かされていた話から、都市部以上に厳しい状況を目にすることが予想されたが、
実際に足を運んでみると現実は多少異なり、倒壊、損壊した家は確かに多いものの、瓦礫はすでに取り除かれて、
木材やジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)を使って、以前の建物と同じ間取りの住居がすでに建築され、
あるいは建築中であるのを数多く目にした。真新しいジンクシートの建物で商店や飲食店を再開しているケースも多く、地震からの立ち直りは、
都市部よりむしろ田舎のほうが早いのではないかとの印象を持った。
ところで、今回のネパール滞在中には新憲法の公布という、この国の歴史に長く刻まれるであろう出来事があった。
街には新憲法を祝して飾り付けが施され、花火が上がり、人々は外に出てその高揚感に浸っている。
そんな状況の中に身を置くことができたのは、16年間ネパールにかかわってきた者として大きな喜びであった。
もう争いごとはこれまで十分すぎるほどやってきた。この憲法の下、一致団結して地震からの復興を成し遂げてくれることを期待したい。
○日 程:2015年9月20日〜9月26日
○主な活動先:@パタン市/小学生の自宅2か所、
Aパタン市/ハリシッディ地区の被災者居住区、
Bチャリコット郡バインセ村/サルダ第2学校、
Cヌワコット郡ダダ村/ジャルパデビィ小学校
高揚感に浸る街
「ほんまかいな。」2006年に王制が倒れ共和制に移行して半年程度でできるはずだった新憲法。しかし、
不毛の議論が延々と続き9年間も決められなかったものが、9月20日に公布されることになったと聞いたとき、私が発した言葉である。
しかし本当にできた。「やればできるやん。」私がネパールのテレビで憲法公布の式典を見たときに発した言葉である。
ネパールの友人によれば、やはり新憲法ができたのには4月の大地震が影響したそうである。これによって、
議会第一党のネパール会議派、第二党の毛沢東主義派、第三党の共産党が手を握り、あっという間に新憲法制定に至ったとか。
こんなことがこの国の政治家にできるのなら、震災復興にも一致団結して当たってほしいと心底思う。
一方で新憲法に反対する勢力も存在しており、ネパール南部のインド国境付近では連日、
マデシと呼ばれるインド系住民の抗議活動が続いている。さらには隣国インドが露骨な内政干渉に乗り出し、
この新憲法に反対して国境を封鎖。10月13日にネパールで新たに首相が選出されたことをきっかけに、ようやく国境封鎖は解除されたものの、
石油、ガソリンを中心に深刻な物資不足が未だ続いている。
都会の片隅の貧困問題@
女の子の名前はビブティ・ナカルミ。現在9歳で小学校2年生。本来なら3年生のはずだが、
家庭の事情で学校に満足に通うことができず、同い年の子供より1年遅れている。
友人のスニルから、家庭の事情で学校へ通うことが難しくなっている子供が2人いるが、
学費の支援をしてあげてはどうかとの話があったのは、前回7月のネパール訪問の直後。スニルには、
9月にネパールに行った際に実際に会ってから決めると回答し、今回の自宅訪問となった。
彼女は、現在、父方の祖母と伯母、叔母の4人で暮らしており、両親は数年前に離婚。母親は弟だけを連れて、
別の男性と結婚したとのこと。父親はもともとヒンドゥー教の祭祀で楽器を演奏する仕事をしていたのだが、
その儀式の中で度々使用していた麻薬が私生活でも手放せなくなってしまい、今はリハビリ施設で暮らしているという。
伯母たちによれば、ビブティちゃんは父親と暮らしていたときはまだ笑顔を見せることもあったそうだが、
父親と離れてからはほとんど笑顔を失ってしまったそうだ。写真をクリックすると拡大します。
都会の片隅の貧困問題A
彼女の暮らすこの家も経済的には苦しく、祖母が自宅の1階で営む小さな売店と、伯母たちの民芸品づくりの内職が収入のすべて。
さらに、ビブティちゃんの父親が入っているリハビリ施設の支払いもかさみ、ビブティちゃんをこのまま学校に通わせるのは困難なことから、
学費無料の宗教系の全寮制の学校に転校させようと考えたのだが、やはりビブティちゃんは今の学校に通いたいという。
そう語る40代の伯母自身も、貧しさゆえに結婚を諦めてしまったそうだ(ネパールでは結婚するのに多額の持参金を要するのが普通だが、
この家庭にそのお金を用意する余力はない)。
ネパールでは学校に通えないほど貧しい家の女の子は、どこかに働きに出されるか(その場合、良い収入が得られるからと騙され、
インドなどに連れ去られて怪しげな店で働かされることも多い。)、14〜15歳で親の決めた相手と結婚させられることも多い。
学費は教科書代を含め1年で35,000ルピー(≒40,000円)ほど。
これまで長期に亘る支援を約束することは、自分だってこの先どうなるかわからないので避けてきたのだが、
今回だけはこの状況を見過ごすわけにはいかず、毎年の学費を最長で高校卒業まで支払うことを約束した。
都会の片隅の貧困問題B
自宅の1階で祖母が営む小さな売店。家の前の通りは、人や車、バイクの行き来がそこそこあるので、
それなりにお客は来るのかもしれないが、数坪しかない店舗での稼ぎはおそらくそんなに多くはないだろう。
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都会の片隅の貧困問題C
パタンの中心部に近い住宅密集地にある店舗兼自宅。この建物もすでに銀行の借金の担保に入っているという。
スニルはこの場所なら自宅はそこそこの値段で売れるはずなので、担保が実行されて自宅が取られてしまう前に家と土地を売って、
借金を返して田舎に移り住んだらどうかと彼女たちに言っていたが、彼女たちにとってはそう簡単に割り切れるものではないのだろう。
都会の片隅の貧困問題D
帰る間際にビブティちゃんが微かに笑顔を見せてくれた。この笑顔がもっともっとたくさん見られるようになればいいのにと思う。
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都会の片隅の貧困問題E
スニルから紹介を受けたもう一人の女の子の名前はディビシャ・バジュラチャヤ。ビブティちゃんと同じ9歳だが、留年はしておらず、
またまもなく10歳の誕生日を迎えるため、学年は2年上の小学校4年生。彼女の家庭も父親に問題があり、
仕事をせずに毎日お酒ばかり飲んで過ごした挙句、アルコール中毒になってしまい現在入院中とのこと。
ディビシャちゃんは、ビブティちゃんとは異なり母親と一緒に暮らしていることもあって、普通の子供らしい表情を見せてくれたのだが、
母親と祖母の硬く疲れた表情が、この家族の困難な状況を物語っている。
家計は母親が絨毯工場で働いて支えているが、もともと食べるだけで精一杯だったところに父親の入院費がかさみ、
ディビシャちゃんの学費の支払いが困難になっているという。写真をクリックすると拡大します。
都会の片隅の貧困問題F
この家庭状況をさらに厳しいものにしているのが、地震で自宅に大きな亀裂が入ってしまったこと。
家の中に入っても建物が傾いていることが感じられ、スニルなどは「怖いからあまり入りたくないです。」とまで言ったほど。
役所からはこの家には住まないほうがいいと言われたそうだが、建て替えるお金など毛頭なく、
他に行くあてもないのでこの家に住み続けるしかないという。
ディビシャちゃんの学費、年額35,000ルピー(≒40,000円)についても、最長で高校卒業まで支払うことを約束し、
自宅を後にした。支払いについては家族に現金を渡すのではなく、後日、スニルが2人の通う学校へ納めに行くこととした。
ハリシッディ村にて@
7月に訪問し、ジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)72枚を寄付したハリシッディ村が、この2ヶ月間でどう変わったかを見るため
再訪。まず、前回寄付したジンクシートで造った仮設住宅を見せてもらう。その仮設住宅は、畑の真ん中に建っていた。
地域の高齢者は、この時間、みんな近くのヒンドゥー寺院へお祈りに行っているそうで、この家の家主とは会うことはできなかったが、
少しは被災者の方の役に立つことができたことをこの目で確認できて嬉しかった。
この後、同様に7月に寄付したジンクシートで造った仮設住宅二棟と道端の小さな集会場を更に見て周った。
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ハリシッディ村にてA
この建物は7月の訪問時には無かった新しいタイプの仮設住宅。倒壊したレンガを壁面や床面に流用した仮設住宅で、
建築学を教える大学教授が村にやってきて、見本として一棟建てていった物だとか。
この方法だとジンクシートのみで作る仮設住宅より安定感があるし、使用するジンクシートを減らせるうえに、
処分するレンガを減らせることも可能になる。仮に再び大地震が来て倒壊しても、この程度のレンガの使用であれば、
下敷きになっても生命にかかわるようなことにはならないだろう。なかなか良いアイデアだと思う。写真をクリックすると拡大します。
ハリシッディ村にてB
仮設住宅が立ち並ぶエリアには電気が通っていた。電気も確か7月にはまだ無かったはず。少しずつではあるが、
仮設住宅で生活していくためのインフラが整いつつある模様。
ハリシッディ村にてC
仮設住宅の中にテレビの置いてある家も。仮設とはいえ生活の質を高め、少しでも以前の暮らしぶりに近づけることは必要なこと。
それには娯楽も重要な要素になるので、テレビも必要と言えるだろう。
ハリシッディ村にてD
7月に笑顔で我々に話しかけてくれた仮設住宅に住む校長先生とも再会。その校長先生からぜひ見て欲しいと案内されたのは、
仮設住宅街の一角にある公民館のような場所。今ここを学校替わりに使っているそうだが、中に入ると黒板はなく、
机や椅子も僅かしかない状況で、およそ学校とは思えない状況。もし、次に何かご協力いただけるのであれば、
学校のために椅子や机などをご寄附いただけないかと校長先生が言うので、次回12月に来る時までに考えたいとお伝えした。
チャリコットへ
カトマンズから直線距離で80キロ東方に位置するチャリコット郡の郡都、チャリコット。この街へは2011年、ドルカでの
ボランティアに向かう途中で一泊した。峠道を超えて忽然と現れる高層ビル群(といっても5〜6階建ての建物が20棟程あるくらい)と、
街から遠望できる雪を頂いたヒマラヤの峰々に強い印象を受けた街なのだが、
5月12日に発生した今回の大地震の最大余震の震源地に近いことから大きな被害を受けたと伝えられ、
さらにユニセフのネパール大地震支援募金のチラシの表紙にチャリコットで撮影された写真が使われていたため、
きっと酷いことになっているのではないかと心配していた。
実際に行ってみると、高層ビル群は外から見る限り無傷。街も4年前と変わらず活気に満ちており、良い意味で拍子抜けとなった。
ただ丹念に街を見るとやはり古い建物の中には倒壊したものもあり、古い建物と新しい建物で明暗がくっきり分かれた形となっている。
バインセ村へ@
チャリコットで一泊した後、学用品を届けるためにバインセ村にある学校へ向かう。メンバーは私のほか、スニルとスニルの友人Aさんと
そのAさんの友人、Bさん、さらにBさんの友人のCさんの5人。
当初の情報では、バインセ村へはチャリコットから3キロほど。しかも車で到達可能とのことであったのだが、
車の中で話し始めると実際は全然違って、稜線上にあるチャリコットの町から、谷沿いのタマコシという街まで一旦、山を下り、
川を車では渡れないので荷物を積み替え、我々はバイクで、荷物はトラクターで、再び山を登ることになるという。
何でそんなに話が違うのかが当然、車中で問題になった。
私がチャリコットから3キロという情報を得たのはもちろんスニルからなのだが、スニルはこの情報を友人のAさんから得ており、
スニルはそのAさんが現地と連絡を取り合って話を進めているものと思っていたところ、実際にはAさんは現地のことはよくわかっておらず、
バインセ村出身でカトマンズに住むBさんに相談しており、そのBさんが現地の学校と調整していたことが発覚。
Aさんが良く調べもせず適当な回答をしていたというのが真相のようだ。
スニルはAさんが現地と直接やり取りしていると今まで思っていたみたいで、
それが違うことがわかって車の中でAさんを延々と責めていたが、私としては今さら言っても仕方ないので、
ここはひとつ開き直り、この先何が起こるかを”期待に胸躍らせて”先に進むことにした。
というわけで、前方に見える山の上、日差しが当たっているあたりにあるというバインセ村を一路目指すことに。
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バインセ村へA
タマコシのバザールからは急に悪路となる。景色も一変し、地震で壊れた家屋がそのままの姿で放置されている。
我々が乗ってきた車、見た目はオフロード向きの車に見えるのだが、タイヤがあまり大きくなく、車高も意外と低いうえ、
底面に突起物があったりして、道が悪くなってからは何回も底を擦る事態となる。さらに泥道ではエンジンを何度も吹かしたため、
白い煙とともに金属が焼けるにおいが車内を漂い、車はタタ製(インド製)ではなく、
少し高くなっても日本製のパジェロかランドクルーザーにしておけば良かったと反省する。
ただ学校まではチャリコットから3キロという情報の下では、こんな事態は想定できるはずもない。
お蔭でカトマンズに戻ってから車をレンタルした会社に3,000ルピーを追加請求される羽目に。
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バインセ村へB
チャリコットから山を下りきったところにある川に架けられた橋は建設途上で車では渡れないため、物資を担いで橋を渡り、
バインセ村から迎えに来たトラクターがけん引する貨車に物資を積み替え。ここに来るまでにいろいろ問題があったので、
村から迎えがちゃんと来ているか心配だったのっだが、スニルがきつく言ったのが効いたのか、我々が到着する前に来ていた。
バインセ村へC
荷物をトラクターに連結された貨車に乗せ、私とスニルだけが、村から迎えに来たバイクの後部席に乗って山を登る。
私とスニル以外の人は荷物と一緒に貨車に乗るそうなので、私とスニルは一応”VIP”待遇ということらしい。
バインセ村へD
一応はVIP待遇のスニルと私だが、道は舗装されている訳もなく、でこぼこ道を激しく揺られながら山を登っていく。
まるでオフロードのバイクレースを二人乗りでやっているような感じ。
振り落とされないようドライバーの腰に両手を当てて乗るのだが、バウンドする度にお尻の位置がシートからずれるため、
次のバウンドに備えて素早くお尻の位置をバイクの中央に戻さなくてはならない。
こんなことを2時間近く繰り返したため、腰からふくらはぎにかけて随分鍛えられました。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村へE
さらに事態を悪くしたのが、前日降った雨。お蔭で随所で道がぬかるみ、上下の揺れだけでなく、
後輪が泥で突然ズルッと横滑りする事態にも対応しなければならない。あまりに道の状態が悪い場所では降りて歩くことも。
ただ、ドライバーはこの道の走行に習熟しており、溝のないツルツルのタイヤにも拘わらず”神業的ドライブテクニック”でカバーし、
一度も転倒することなく村まで無事到着。スニルが乗ったバイクに至ってはブレーキが壊れていたそうで、
それをギアーの操作でスピードが出過ぎないよう調整して、帰路の山下りも殆ど遅れを取ることなく無事に走り通した。
バインセ村にて@
途中、茶店で休憩を取りながらも目指すサルダ第2学校へ到着。校舎は2か所に分かれているそうで、
まず中・低学年が学ぶ校舎を案内してもらう。まず目に入ったのは壁のない校舎。地震で壁が壊れてしまったとのこと。
ここで毎日授業を行っているのだそうだ。この先、冬の寒い時期をどうやって乗り切るのだろうか。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村にてA
ひととおり校舎を案内してもらったあと、生徒たちに集合がかかり歓迎の儀式が始まる。儀式といっても、
生徒の前に座って花の首飾りをいただくだけ。
スニルが主役は僕じゃないからと言って花の首飾りを辞退したので、ほとんどが私の首に来てしまった。
バインセ村にてB
学校の全景。学用品の配布はさらに山の上にある高学年の生徒が学ぶ校舎で行うそうで、
後ほどここにいる中低学年の生徒たちもそちらにやってくるとの説明を受け、
私とスニルは再びバイクの後部席に乗ってそちらに向かうことに。
バインセ村にてC
再びバイクで5分ほど走って、サルダ第2学校の高学年の校舎がある村の中心部に到着。
まだトラクターに牽引された物資がやって来ないので、軽く食事を摂った後、村の中をしばし散策。
建物を見ると、この辺りも地震で大きな被害を受けたことが伺えるが、瓦礫は取り除かれ、
使用可能な壁などはそのまま生かしつつ、ジンクシートや木材で壊れた部分を復旧させたものが多い。
村の中心部の商店はすでに営業を再開し、ほとんどの村人が以前の生活を取り戻しているように思われる。
4、5階建ての建物が密集している都会と異なり、もともと簡素な造りの家が多かった田舎のほうが、
立ち直りが早いということだろう。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村にてD
商店の前では目の前で子供たちを遊ばせつつ、母親たちが井戸端会議。こんな平和な光景からも、この辺りの人たちが、
地震以前の日常をかなり取り戻している様子が窺える。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村にてE
村の一画では、今まさに家屋を再建中。建物の規模感から考えると、この建物は仮設などではなく、
長くこの建物に住む意図をもって造っているのではないかと思われる。
バインセ村にてF
物資をけん引したトラクタ―がようやく到着。中・低学年の生徒たちも下の校舎から無事歩いてやって来た。
と、ここでまた一つ唖然とする出来事が。貨車に乗ったはずのAさん、Bさんがいない。聞くところによると、
彼らは貨車の揺れがあまりに激しくて耐えられなくなり途中で降りて戻ってしまったとのこと。
彼らこそが、この村とのつなぎ役だったのにこの場にいないとは一体どういうことかと思ったが、
一方で彼らがここにいてもきっと大して役には立たなかっただろうとも思い、妙に納得できたので、
あまり腹も立たなかった。
バインセ村にてG
生徒たちに整列の号令がかかり、ひと言挨拶を求められたので、いつものように自分は日本からやってきたこと、
日本から皆さんにノートや鉛筆などのプレゼントを持ってきたこと、
そのプレゼントは多くの日本人が皆さんのことを思って寄付してくれたものであること、一生懸命勉強して、
国や社会の役になる人になってほしいことを伝えた。もちろん話すのは日本語なので、となりでスニルが翻訳する。
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バインセ村にてH
あいさつに続いて学用品の配布を開始。500名の生徒に対し、それぞれ鉛筆2本、ボールペンまたはサインペン1本、消しゴム1つ、
ノート1冊とカバンを1つずつ配布する。
ノートや鉛筆等は、愛知県稲沢市の高校の生徒会の皆さんが中心となって集めてくれたもの。また、
カバンは岐阜のIさんが昨年寄付してくれたもの50個に、現地で買い足した450個を配布。
カバンの購入代金300ルピー×450個=135,000ルピー(≒155,000円)と、
ノートや消しゴムの買い増し分9,631ルピー(≒11,000円)は、東京のNさん、名古屋のMさん、名古屋のOさん、
愛知のHさんの寄付金に加え、
9月5日に開催した「ネパール人シェフによるモモとサモサとカレーの会」の売上げを使用させていただきました。
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バインセ村にてI
校庭の片隅ではもらったものを生徒同士で見せ合いっこ。やはり日本から持ってきた鉛筆やボールペン、
ノートはネパールのものと違い、カラフルだし、ノートの紙は真っ白だし、
キャラクターが入っていたりするので珍しいのだと思う。生徒たちの嬉しそうな顔を見ると、
ここまでの苦労も報われた気持ちになる。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村にてJ
ちびまる子ちゃんってわかるかな。ドラえもんはこの国でも有名なのだが、ちびまる子ちゃんはわからないよなぁ。
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バインセ村にてK
学生は総勢500名もいるので配るのも大変。配るべきものがどこかに埋もれてしまい探しまわったり、
自分の意図と違う形で配布されそうになったところを止めて指示をしたり、まるで戦場のよう。
ようやく配布が軌道に乗ったところで先生に交代してもらう。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村にてL
学用品だけでなく、タオルや石鹸も配布。全員に渡るだけの量がないので、先生の意見により高学年の生徒だけに渡すこととなった。
これらも愛知県稲沢市の高校生たちや、私の勤務先の方などから寄付いただいたもの。写真をクリックすると拡大します。
バインセ村にてM
学校にはサッカーボール2個、バレーボール2個と空気入れ、鉛筆、多色ボールペン、鉛筆削り、レポート用紙などをプレゼント。
ボール類はネパールで購入。それ以外は日本から持参。
バインセ村にてN
最後に地震後に建てられた仮設校舎を見学。壁は隙間だらけのため、暑い日は涼しくていいけど、雨の日や風の日はきっと問題があるだろう。
学校で生徒たちが風邪をひいたりなんてことにならなければいいけど。写真をクリックすると拡大します。
ダダ村にて@
カトマンズ東方100キロにあるチャリコット郡バインセ村での活動の翌日は、
カトマンズの北西40キロにあるヌワコット郡ダダ村でのメディカルキャンプを開催。カトマンズからバスを1台チャーターし、
18名の医師、歯科医、看護師に、17名のボランティアとクッキングチームを引き連れ、現地の小学校で無償医療活動を行う。
会場となるジャルパデビィ小学校に到着すると、瓦礫と化した校舎とその向こうに建つ真新しい仮設校舎が目に入ってきた。
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ダダ村にてA
今回のメディカルキャンプは私が日本から持参したお金を基に、付近一帯に住むタマン族の委員会が主体となって実施するもので、
地方政府の許可も取得し、かなりオフィシャルな形での開催となった。
実は私がメディカルキャンプの開催を友人で歯科医のスージットに提案したのが1か月前。
短期間で段取りが組めるのか、準備が間に合うのか心配していたのだが、彼がうまくタマン族の委員会に話を繋いでくれて、
その委員会が地方政府に許可申請を出したので、スムーズに話が進んだのだそうだ。
個人の申請ではそんなに簡単に許可は下りないとのことで、うまく事を進めてくれたスージットたちに感謝しなければならない。
タマン族の委員会は、ラジオでメディカルキャンプの開催告知までしてくれたそうだ。
ダダ村にてB
早速メディカルキャンプを開始。受診に来た住民たちにはまず受付に並んでもらい、症状などを問診し血圧を測定した後で、
症状に応じて各専門医のもとへ行くよう指示する。ちなみに今回のキャンプでは500人が診察にやって来ると想定して準備を進めた。
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ダダ村にてC
今回診療を行ったのは、小児科、婦人科、皮膚科、耳鼻科、歯科、総合科(内科?)。各教室を割り振って、
患者はそれぞれ診てもらいたい医師のところで診察を受ける。ちなみに医師たちは今回のキャンプ開催にあたり、
何か問題が起きたら責任を持つとの誓約書を提出しているとのこと。それが開催許可の条件だったそうだ。
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ダダ村にてD
歯科医のアマルはこれまで我々が開催してきたキャンプに何度も参加してくれていたのだが、今回も彼は来てくれた。
ダダ村にてE
婦人科には患部を診察する際に特別の配慮が必要となるため、教室ではなく特別にテントで診察を行う。
患部を診察するときにはテントの出入口を閉めて行う。
ダダ村にてF
こちらは薬局。医師が書いた処方箋をもとに患者に薬を渡す。薬剤師は、間違いが無いよう、
一人ひとりに服用の方法などを説明するだけでなく、マジックで薬のパッケージに書き込んで手渡す。
パッケージには英語しか書かれていないので、ネパール語で書いてあげることは単なる親切というより必要不可欠なことなのだと思う。
メディカルキャンプ開催にあたって一番お金がかかるのがこの薬の手配。今回メディカルキャンプに要した費用は、
交通費なども含め全部で150,000ルピー(≒170,000円)。その約3分の1強が医薬品購入代である。
ちなみに一部の医師に対してはチップ程度の謝礼も払っている。
今回のメディカルキャンプは、東京のNさん、愛知のMさん、愛知のNさん他のご寄附に私のポケットマネーを追加し実施。
ダダ村にてG
写っているのは左から順に地方政府のお役人さん、そしてスージット、ウッタム、ニランジャンのおなじみの面々、右端が医師のロッキー。
お役人さんの任務はメディカルキャンプが適切に行われているかを確認することのようだが、とても気さくな人で、
私がはるばる日本からやってきて資金提供したことをとても喜んでくれたし、
このようなプログラムが開催されたことは素晴らしいことだと何度も語っていた。
右端のロッキーとは帰国後にフェイスブックで友達になった。写真をクリックすると拡大します。
ダダ村にてH
地元警察も警備で協力。一見、怖そうなこの人たちだが、左側の髭のおじさんは、
子供や若いお母さんたちに何度もちょっかいを出しては小さな笑いを取るおちゃめなおじさんです。写真をクリックすると拡大します。
ダダ村にてI
昼食を準備中のコックたち。今回のキャンプでは地元の人たちが昼食を提供するのは難しいとのことで、カトマンズからコックを連れてきた。
実は彼らはサンリサ孤児院のビシュヌ会長の本職である山岳ガイドのお仕事仲間で、
いつも一緒にコンビを組んでいるトレッキング専門のコックたちである。なので屋外で料理を作るのは手慣れたもの。
ところで中央に立っている白いTシャツを着た若者、以前サンリサ孤児院にいた少年と似ているなあと思っていたら、
やはり孤児院立ち上げ当初にいたキラン・ライ君であることが判明。彼とは2007年に一度会ったあと、
すぐに孤児院を出てしまっており実に8年ぶりの再会となった。彼の消息はその後全く聞いていなかったのだが、
コックとして立派に働いている姿を見ることができてすごく嬉しかった。
2007年のキラン・ライ君はこちらをクリック。(写真右端に写っている少年がキラン。)写真をクリックすると拡大します。
彼と出会ったときの模様は'07ネパール編をご覧ください。
ダダ村にてJ
学校から見える棚田がとても美しい。写真をクリックすると拡大します。
ダダ村にてK
しかし、集落に足を踏み入れると、地震で壊れたままになっている家も多く見られた。写真をクリックすると拡大します。
ダダ村にてL
キャンプ終了後に、タマン族の委員会からタマン族の帽子をいただく。ネパールでは何かのお礼に帽子をもらうことがよくあるのだが、
この時いつも私の頭が大きいことがばれてしまう。
ダダ村にてM
最後にタマン族の委員会、参加してくれた医師たちと記念撮影。今日診察したのは想定人数500人を大きく下回る280名。
昨年のジャナクプル郊外で開催したメディカルキャンプでは、想定をはるかに上回る人々がやってきて大変だったのでやや拍子抜け。
この違いはなぜ生じたのが。スージットたちと話し合ってみたが、一つの要因は人口密度の違い。
ジャナクプルはインド国境に近い平野部で人口も多いのに対し、ヌワコットは山地で人口密度も低い。
さらにはやはりヌワコットはカトマンズから40キロあるとはいってもジャナクプルに比べればずっと首都に近く、
医療サービスが受けられる機会もより多いのではないかというのが一応の結論。
とはいえ、体を病んでいる人々に対し制約のある中でも医療を提供できたことと、何より大勢の人々に喜んでもらえたことは良かった。
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後日談
帰国後一週間ほどして、スニルから学費の支援を約束した女の子たちの学校へ出向き、それぞれ学費を納めてきたとの報告が届いた。
(写真はビブティちゃんの学校の領収書。)特にビブティちゃんの学校の先生は、
彼女は勉強はできるのに経済的な問題からあまり学校に通えていなかったので、
学費の心配が無くなって良かったとすごく喜んでくれたそうだ。
また、時を同じくして、スージットからヌワコットでのメディカルキャンプに関し、
@当初想定していたより診察に訪れた人が少なく余ってしまった薬を払い戻したこと、
A一方で、当日参加してくれたボランティアが予定より多かったので食事代が予算オーバーしたこと、
B薬を払い戻したお金(13,250ルピー)から、
オーバーした食事代(10,000ルピー)を差し引いた残金をお返ししたいと思うがそれでよいか、との連絡があった。
私はもちろん快く了承。私も薬が余ったことはわかっていたものの敢えてそのことには触れずに帰ってきたのだが、
そのことをうやむやにせずに最後まできちんと対応してくれたことが何より嬉しい。
ネパールでの活動が長く続いているのは、何よりスニルやスージットのような信頼できる友人たちがいるからこそ。
彼らこそがこの活動を通して得られた私の最も大きな財産であるという思いを強くした。
余った3,250ルピー(≒3,700円)は、年末年始に予定している次回の活動に回したいと思います。