'12ネパール編
12回目のネパールは、このホームページを見たことがきっかけで参加することとなった横浜の大学生Kさん、
そのお友達のMさん、そして会社の後輩O君の4人で訪問。私以外ネパールは初めて。さらには、
O君が20代、KさんとMさんは10代というこれまでにないフレッシュなメンバーでの訪問となった。
今回の活動の目玉は2つのプロジェクト。一つはカトマンズから200キロ離れたラムジュン郡・シウルン村で
実施したもので、2泊3日のスケジュールでネパール人内科医、歯科医、看護師など総勢30名の参加を得て、
医療活動や物資の配布を行うという、かつてない大規模なものである。
もうひとつはサンリサ孤児院の子供たちによる、パシュパティの老人ホームでのコンサート。これは、
サンリサ孤児院の子供たちの楽器演奏のレベルが上がってきていることを毎年目にしていたことと、同じく毎年訪問してきた
パシュパティの老人ホームのために何か物資の配布以外でご老人たちに喜んで貰えることができないかという思いが結びつき、
私が提案したアイデアが実現する運びとなったものである。
どちらも、多くの人々の協力が必要であり、私自身にとっても、また、長年一緒に活動してきたネパールの友人たちに
とっても、かつてない大きなチャレンジとなった。
○日 程:2012年9月16日〜9月23日
○主な活動先:@バグタプル市/筋ジストロフィー・ケア・ソサエティー、
Aカトマンズ市/サンリサ・オーファネッジ・ネパール、
Bラムジュン郡シウルン村/ラタクンジ小学校、
Cラリトプル郡ナルー村/スリデビ小学校、
Dカトマンズ市/ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラム
筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて@
筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーへは昨年に続いての訪問。ちょうど子供たちはボールを転がして的に当てる
ゲームをしているところだった。残念なことだが、見たところ、子供たちの病状は昨年より進行している印象。
筋力が少しでも落ちないよう、長年に亘って毎日毎日子供たちの世話をしている会長さんには、ただただ頭が下がる。
筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにてA
東京のNさんからお預かりした現金の一部30,000ルピー(≒30,000円)を寄贈。お返しに子供の描いた
油絵を頂戴した。
筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにてB
最後に全員で記念撮影。今度来たときも、また全員の元気な顔が見れますように。写真をクリックすると拡大します。
サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて@
サンリサ孤児院の子供たちには5日後に大きなミッションが待っていた。そのミッションというのは、私が思いつき
でリクエストしたもので、同じく毎年訪問しているパシュパティの老人ホーム”ソーシャル・ウェルフェア・センター・
ブリダシュラムでコンサートを開くというものである。毎年、子供たちの楽器演奏のレベルが上がっているのを目の
当たりにし、これを老人たちの前で演奏したらとても喜ばれるのではないかとのひらめきからリクエストした話が、
実現する運びとなったのである。
サンリサ・オーファネッジ・ネパールにてA
子供たちは楽器演奏のほか、毎回ダンスも見せてくれるのだが、今回はこれまでにないヒップホップ調のダンスを披露
してくれた。これまでは恥ずかしがってぜんぜん踊ってくれなかったプラも、いつもと違って今回はノリノリ。
シウルン村への長く険しい道のり@
今回のネパール滞在中、最大のチャレンジとなるシウルン村での活動。片道だけで丸一日かかる行程のため、2泊3日で2日めを
丸々活動に充てる。参加者が30名にも上るため、バスを1台チャーター。ところが走り出してまもなく、自動車修理工場の
ような場所にバスを止めて、タイヤの空気を補充。しばらく走ったものの、やはり空気が抜けるのか、カトマンズ盆地
を出たところの修理工場で再度停止し、今度はタイヤを外し始める。タイヤの溝もすっかり磨り減っており、当然、
新しいタイヤに付け替えるものと思って作業を見ていると、タイヤの中からチューブを取り出して穴の開いている箇所を修理し、
またもとの磨り減ったタイヤに戻してそのまま取り付けてしまった。バスのチャーター代は、日本から値切り交渉をするよう
言ってあったことが効いたのか、3日間(運転手1名、助手2名付き、ガソリン代込み)で38,000ルピーという格安。
その報いがこのパンクなのかも。
シウルン村への長く険しい道のりA
”シウルン村への長く険しい道のり”第2の関門は大渋滞。この大渋滞の原因は、がけ崩れや車の故障などの理由で片側
車線が塞がっていることによるもの。写真のような渋滞が、途中、何箇所もあり、その度に時間のロスが生じる。既に出
発の遅れやタイヤのパンク修理などでかなりの遅れが出ており、車内はイライラムード。その空気を察知したのか、
運転士は渋滞の先のほうで車が流れ始めるのを認めるや否や、車列の右側にはみ出し、反対車線を猛スピードで走行。
何台、何十台もの車を追い越して、車の流れが再び渋滞でストップする寸前にわずかな車と車の隙間を見つけて左側の
車列に割り込むという”暴挙”を繰り返し、時間のロスを最小限に留めることに成功。この”暴挙”がなければ、
シウルン村到着は、あと2時間は遅れただろう。
シウルン村への長く険しい道のりB
第3の関門は悪路。幹線道路を外れてからは、徐々に道が貧弱となる。雨で水没したり、川と化した道は何とか進めた
ものの、ぬかるんだ道には大苦戦。スリップして進めなくなったときには、みんなで石を集めて泥道に敷いたり、車のすれ違いを
するときは、手分けして四方八方から運転手に指示をしたり。。。一時はどうなることかと思いきや、何とかなるもの。
いや、何とかするのがネパール人の凄いところ。
シウルン村への長く険しい道のりC
バスで行ける最終地点、タリに到着したのは、当初の午後2時の予定から大幅に遅れ、午後6時前。ここで、シウルン村から
やってきた村人と待ち合わせ、荷物を運んでもらう約束。我々の到着が4時間も遅れたにも関わらず、村人たちは約束の場所で
待っていてくれた。
シウルン村への長く険しい道のりD
タリからは歩いてシウルン村に向かう。この第4の関門こそが、ネパール12回目にして最も過酷な体験となる。
当初聞かされていたのは2〜3時間のトレッキング。ところが、実態は完全な登山。しかもどれだけ登ってもまた登り、
登り、登り。歩き始めて30分で日は沈み、その後はランプだけを頼りに、ぬかるんだ山道を息を切らせながら
ひたすら登る。予定の3時間を過ぎても村に近づいた雰囲気すらない。体力的にはすごくきつかったが、こんなところで
一人はぐれるわけにも行かず、必死で付いて行く。唯一の慰めは、頭上に満天の星空が広がっていたこと。休憩の度に、
星空を眺めながら仲間と会話を交わす間だけは、我が身の不幸を忘れることができた。
シウルン村への長く険しい道のりE
気力も体力も限界に達しつつあった頃、暗闇のなかに大勢の人の姿を発見。村の人たちが、我々のために山中で飲食の用意を
してくれていたのだった。彼らが提供してくれたのは、あったかい紅茶に、カレーで煮たジャガイモ、
作りたてでほかほかのポップコーン。これには涙が出るくらい嬉しかった。ここに着く少し手前では、
暗闇の中から12歳ぐらいの女の子2人が突然現れ、誰かが担いでいたと思われる水1リットルのボトルが
何本も入ったダンボールを背負って、最後尾でバテバテの私の後を終始楽しそうにお喋りしながら付いて来ていた。
きっと村人も、この女の子たちも暗闇のなかで長い間待っていたに違いない。「我々は村の人たちに歓迎されている。」
暖かい食事と飲み物以上にそう感じられたことが、ここから前へと進む大きな力となった。
シウルン村への長く険しい道のりF
山中で村人の歓待を受け、もうシウルン村も遠くないのではとも思ったのだが現実はそんなに甘くなく、
そこからシウルン村に到着するまでにはさらに2時間を要した。時刻はもう夜の11時だというのに、大勢の村人が我々を歓迎してくれた。
やっとのことで椅子に腰掛け、靴を脱ぐと靴下が血まみれ。その原因は”蛭”。
ぬかるんだ山道を歩くうちに何匹もの蛭が靴の中に入り込み、血を吸われたためであった。ウェットティッシュで流れ出た血をふき取り、
傷口をしばらく押さえてみたものの血は止まらず。村人が何かの草の葉っぱを取ってきて、それを手で揉み傷口へ摺りこむと、
徐々に流血は収まった。Kさん、Mさんの足もこんな悲惨な状態に。
シウルン村の朝
翌朝、外に出ると雪を被ったヒマラヤの峰々(マナスル、ヒマールチュリなど)が眼前に広がっていた。前夜は暗闇で何も見えなかった
が、すばらしい眺望の村だったのだ。いつものメンバー、スージット、ウッタム、ニランジャンの3人には、
少しでも復興の支援になればと南三陸町で3月にまとめ買いしたTシャツをプレゼント。「腹を見せたくない人は背中見せて。」
と言って撮ったのがこの写真。ちなみにウッタム(左から2人目)は、昨夜、山登りをした全メンバーの中でただ一人、
腹を蛭に刺されたという何とも珍妙な話題を提供。どうやって蛭が腹にたどり着いたのか全くもって謎だが、とにかく、
脂ののった彼のお腹は、蛭にとってとても魅力的だったのだろう。彼も昨夜はかなりお疲れの様子だったが、この出来事のおかげで、
多くのメンバーの表情に笑顔が戻った。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルン@
今回の活動の舞台となるラタクンジ小学校。今回の活動プログラムは、内科医、歯科医、看護師らによるメディカルチェックと
簡易な治療行為、医薬品、歯磨き等の支給並びに学用品、生活物資の配布からなる。我々日本側は主に資金と物資の支援を、
ネパール側は医師、歯科医、看護師らのボランティアと医薬品の提供を担い、サンリサ孤児院のサイドプロジェクトとして
実施するものである。ちなみに、このシウルン村はサンリサ孤児院のスタッフであるビルさんの故郷でもある。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンA
活動開始に先立ち、シウルン村の村長、ラタクンジ小学校の校長、ビシニュ・ライ サンリサ孤児院会長、私の順に挨拶。
今回の活動にはネパールのテレビ局、ネパールABC放送のカメラマンが随行しており、後日、ドキュメンタリーとして、
ネパール国内で放送される予定になっている。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンB
ボランティアスタッフと村、学校の代表者で記念撮影。写真をクリックすると拡大します。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンC
活動開始とともに待ち構えていた村のご老人たちが殺到。こちらは看護師たちによる血圧測定と問診のコーナー。
聞き取りした症状などを紙に書き込み、それを持って医師たちのところへ移動する。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンD
同じく看護師たちによる体温の測定。体温計は、昔ながらのわきの下に3〜5分程度はさんで測るものだ。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンE
内科医たちによる診察。ここで村人たちの体を診察し、症状などを聞いたうえで薬を投与する。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンF
こちらは歯科医たちによる歯の検診。程度にもよるが、虫歯が見つかれば抜歯も行う。
以前、同様の活動を行ったときもそうだったが、ネパールの田舎の村では、甘いものを食べて虫歯になるより、
歯を磨く習慣がないことによる歯垢、歯石が原因で、高齢になると歯がほとんど抜けてしまうことのほうが問題
のようである。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンG
医療活動のできない我々日本人は、歯の診察・治療が終わった人たちに交代で歯磨きセットを渡すのが唯一のお仕事。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンH
もらったばかりの歯ブラシで、早速、歯を磨く殊勝な子供。というより、新しいおもちゃを手に入れて試している
というのが正解かな。でも、「歯磨きっていうのはこうやってやるんだよ。」と
周囲の人たちを教え諭しているようにも見える?
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンI
活動の合い間に子供たちと遊ぶMさん。今回は、本当にメンバーに助けられた。私以外の3人は初ネパール。
昨夜はいきなりさんざんな目に遭ったにも関わらず誰も文句一つなく、むしろその状況を楽しんでいるような様子すら
あったほど。私自身、昨夜の山歩きは正直、いっぱいいっぱいで人のことなど構う余裕はない状況。
そんな中での3人の頑張りは本当に有難かった。むしろ私のほうが励みになったほど。日本人が私一人だけだったら
めげてしまっていたかもしれない。しかもこの3人、今日は今日で昨夜の出来事はなかったかのように、
村の子供たちの中に入って行って楽しそうに走り回っている。このメンバーじゃなきゃ、
今回の過酷とも言えるスケジュールは乗り切れなかった。心底そう思う。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンJ
医療活動に続いて行うのが学用品などの配布。我々が日本から持ち込んだものの他に、ネパールで購入したもの、
サンリサ孤児院で集めたもの、ウッタムの友人がイギリスから送ってくれたものがある。実はこれ以外にも、
大人用の衣料、石鹸などがあるのだが、それらを並べる場所がなかったので写真には写っていない。昨晩は、こんなに
多くの物資のほとんどを、カトマンズから連れてきたポーター2名と迎えに来た村人たちで、夜の山道を担ぎ上げてもらった。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンK
子供たちには、カバン、ノート、ボールペン、鉛筆、消しゴム、衣類を順次配布。これらは、主に我々日本側で用意したもの。
文具類は、私の勤務先や名古屋のNさん呼びかけで集まったものなど。子供用の衣類は主に稲沢のTさん、バッグは岐阜のIさん、
消しゴムは初ネパールのKさんが700個以上集めた。この他、カバン125個、ノート312冊、鉛筆11ダース、ボールペン90本、
筆箱21個、歯磨きチューブ200個、歯ブラシ125本、石鹸150個をネパールで購入。合わせて49,322ルピー
(≒49,322円)は、東京のNさんからご提供いただいた資金を活用させていただいた。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンL
学用品、衣類のほか、小さな子供にはサンリサ孤児院が集めたぬいぐるみかおもちゃも配ったため、一人では持ちきれないほど。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンM
物資の配布の順番を待つ子供たち。楽しそうに自分の番を待ってくれている。写真をクリックすると拡大します。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンN
全員に配り終わったところで文具類にまだ余裕があったので、各学年の成績上位3名に追加配布。
写真をクリックすると拡大します。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンO
学校への寄贈品として、校長先生にカバン、ボールペン、鉛筆、マジック、レポート用紙、方眼紙などをお渡しする。
この他、大人用の衣類や石鹸、タオルなどは、この場に来ていない村人も大勢いることから村の婦人会にまとめてお渡しし、
配布していただくことにした。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンP
早速、もらった文具類を親兄弟や友達に見せる子供たち。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンQ
高学年の子供たちには、岐阜のIさん手作りのリュックを配布。
フリーメディカル&エデュケーションキャンプinシウルンR
最後に、ボランティアスタッフ全員に今回の活動の参加証を贈呈。私は証明する側の3人のうちの1人として、
参加証全部にサインをした。(他にサインしたのはサンリサ孤児院の会長とラタクンジ小学校の校長。)
もらった側の人たちが思った以上に喜んでくれて、こっちも嬉しかった。
シウルン村の夜@
この日の夜は、村の集会所で村人たちによる歌と舞のもてなしを受けた。舞を舞ったのは主にグルン族の民族衣装を
身に纏った女性たち。優雅に踊る人、楽しそうに踊る人、少し恥ずかしそうに踊る人、人それぞれ。
多くの村人が入れ替わり舞を披露してくれた。もてなしを受ける側の我々も、最初の数分間だけはおとなしく見ていたものの、
じっとしていられなくなったネパール人がまず踊りに参加。さらにその様子を見ていたメンバーが、一人ひとり
腕を引っ張られ強制的に踊りに参加。当然、我々日本人も見ているだけというのは許されるわけもなく、見よう見まねで
踊りに加わった。大勢の村人も見物にやってきて大いに盛り上がり、楽しい一夜であった。写真をクリックするとムービー
(you tube)がご覧いただけます。
シウルン村の夜A
夜空にはまばゆいばかりの星々。この日は雲ひとつないうえ月もなく、もちろん、街の灯りなどというものは
一切ない。この星空の撮影にO君が見事成功。最近はコンパクトカメラといえど性能は侮りがたいものがある。
ちなみにO君はこの写真の撮影の最中、何度も地面に身をかがめてカメラを設定したために、また蛭に血を吸われてしまった。
でも、この写真を見ればその甲斐はあったというもの。写真をクリックすると拡大します。
出発の朝@
空気が澄んだすばらしい朝。写真の山はヒマールチュリ(標高7893m)と思われます。写真をクリックすると拡大します。
出発の朝A
村の家々から炊事の煙が上がる。ここには車もなく、バイクもない。モーターの付いた動力源は一切ない。
ただ時折、牛やにわとり、やぎ、犬などの鳴き声がするだけの静かな朝。
出発の朝B
朝、ヒマラヤの峰々を眺めていると村人からあったかい紅茶の差し入れ。砂糖のたっぷり入った甘い紅茶。
でもなぜかここで飲む甘い紅茶は最高に美味しい。ここはまるで夢の中で見た世界、桃源郷。でも、美しいものには棘があるというもの。
ここでの暮らしが生易しいものではないことは、この2日間で多少なりとも体感してきた。この2日後には、写真にも写っている
マナスルで雪崩が発生し、多くの登山者が亡くなる事故が発生している。こうしてヒマラヤの峰々を眺められる村に客として滞在するのが、
軟弱な日本人が立ち入ることを許される限界なのかもしれない。でも、いつかはこの先の世界にも足を踏み入れてみたい。
出発の朝C
村の長老たちが一人ひとりに「また戻ってくるんだよー」と言って送り出してくれた。
出発の朝D
最後の最後に見送りに集まってくれた村人も交えて記念撮影。顔なじみの子供たちもいて、名残惜しさからなかなか出発できない。
写真をクリックすると拡大します。
スリジャナ・サンディプ姉弟との再会
山を下りるまで全く知らされてなかったのだが、山を下りたところに3年前までサンリサ孤児院で暮らしていたスリジャナと
サンディプの姉、弟が住んでいるというのでその家を訪問。しかし、そこで目にしたのは二人の厳しい現実。二人がサンリサ孤児院
を出る際には、必ず二人とも学校に通わせるという条件だったのに、姉のスリジャナは学校に通っておらず、それどころか、
昨年、わずか14歳で結婚したとのこと。祖父、祖母との厳しい暮らしの中で、祖父母が早く結婚したほうが少しでも家族や
スリジャナ自身の生活が楽になると考え、祖父母が決めた相手と結婚したのだという。スリジャナは、私が初めてサンリサ孤児院を
訪問したとき、強い印象を持った女の子。日本から持参したワンピースを着た姿は、それはそれは可愛かった。
(詳しくは”07ネパール編”の後半を参照)以来、
訪問するたびに、その成長ぶりに驚かされたのだったが、2年前の訪問時、叔父、叔母に引き取られたと聞いた。
本当は笑顔で彼女と再会したかった。サンリサ孤児院で会ったときのように。でも、3年ぶりの再会はどこかぎこちないものに
なってしまった。サンリサ孤児院のビシュヌ会長は、孤児院の最初の卒業生である2人のために支援を続けて行くという。
彼らのこの先の人生が少しでも幸多からんことを祈らずにはいられない。
ナルー村へ
シウルン村から深夜にパタンのホテルに帰りついた翌日は、ラビンドラによるプログラム。
行き先はナルー村のスリデビ小学校。ナルー村に行くのは'01年、'08年に続いて3回め。しかし、訪問する小学校は過去2回と違う
小学校。過去2回の印象ではけっこう遠いところへ行ったような気がしていたが、前日、シウルン村から丸一日かけて帰ってきたこともあり、
すごく近く感じる。何より車を降りて山道を歩く必要がないのがありがたい。3回目ということで見覚えのある場所も随所にあった。
過去2回、同じ場所で乗っていた車がオイル漏れを起こしたり、大型トラックが故障して道を塞いでいた”因縁の場所”では、
今回は何事もなく無事通過できた。
スリデビ小学校にて@
スリデビ小学校訪問の第一の目的は、現在、建設中の校舎の教室に取り付けるホワイトボードを寄贈すること。
校舎の建設資金は、アメリカのNGOが援助したそうだ。台湾人のグループもやってきた形跡があり、カトマンズに近い学校には、
外国の支援が多数入ってきている模様。ホワイトボードは東京のNさんからお預かりした資金で購入。4枚で16,000ルピー
(≒16,000円)。
スリデビ小学校にてA
古い校舎の教室の壁には石でできた黒板。新校舎の教室には我々が寄贈したホワイトボードが付く。
スリデビ小学校にてB
ナルー村はタマン族の村。肌の色は少し黒いが、ネパール国内の数ある民族の中で、
タマン族が一番日本人に近い顔立ちをしているように思う。写真をクリックすると拡大します。
スリデビ小学校にてC
スリデビ小学校でも学用品の配布を実施。ノート、鉛筆、ボールペン、消しゴムなど。
学校にも先生用のカバンやレポート用紙、カッターナイフ、ハサミ、のりなどを寄贈。
スリデビ小学校にてD
最後に全員で記念撮影。写真をクリックすると拡大します。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて@
ネパール最後のプログラムは、ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムでの
サンリサ孤児院の子供たちによる演奏会。入居者のご老人たちがどんな反応を示すのか、
期待半分、不安半分。演奏会開催に必要な音響機器類は、東京のNさんの資金を活用してレンタル。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてA
ネパール伝統の竹製の横笛”バンスリ”は、ジャヤ、ディネシュ、ラメシュの3人。
特にジャヤとディネシュの笛は出色。曲の主旋律を奏でる彼らの演奏。特に高らかに響き渡る高音は
かっこ良すぎるぞ。写真をクリックすると拡大します。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてB
ネパールの太鼓”マーダル”は、カラとクシャイが担当。プラはタンバリン。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてC
ジャワラ、ビンドゥー、サラソーティ、ラクパの4人は、バイオリンを演奏。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてD
最初は見ているだけだった老人たちも、踊り大好きのネパール人の血が騒ぐのか、
曲が進むにつれて踊り始める人が出てくる。若い頃を少しでも思い出してくれたら、やった甲斐があったというもの。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてE
この演奏会にもネパールABCテレビの取材が来ていた。写真はカメラの前でインタビューを受けるビシュヌ会長。
実は私もこの後インタビューを受けた。映像はこの日の夜7時のニュースで放送されたのだが、その時刻、我々がいた
サンリサ孤児院は停電でテレビを見ることができず、映像を見ることもできなかった。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてF
子供たちの演奏が終わった後は、ビシュヌ会長、ビルさんらによるバンド演奏。
曲目はネパールの伝統音楽のメドレー。彼らの演奏でも、多くの老人たちが踊り、大いに盛り上がった。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてG
演奏会は盛況のうちに無事終了。その後は老人たちに軽食を配布する。配ったのは、バナナ2本にりんご、ビスケット、
ジュース。これを230人分用意し、一人ひとりに手渡ししていく。購入資金33,800ルピーはNさん提供。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてH
最初は見ているだけだったサンリサの子供たちも、途中から配布を手伝ってくれた。
ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにてI
受け取りに来れなかった老人たちのところには、こちらから出向いて手渡しする。渡していない人が一人もいないよう、
建物の隅々まで探してまわり、全部配りきった。写真をクリックすると演奏会の映像(You tube)がご覧いただけます。
スワヤンブナートにて
パシュパティの老人ホームを出て遅い昼食を摂った後、子供たちとともにチベット仏教寺院スワヤンブナートへ。
写真をクリックすると拡大します。
サンリサ孤児院にて
最終日の活動を終えサンリサ孤児院へ。ここで、日本から預かってきたお金の残りをサンリサ孤児院に寄付。東京のNさん、
名古屋のTさん、さいたまのYさん、岐阜のIさん、日進のFさんの資金に我々日本人4名の資金を合わせると
115,000ルピーほどになった。停電中で灯りは1本のろうそくのみという状況だったため、お金を数えるのも一苦労。
(ネパールの最高額紙幣は1,000ルピー。)出発前にはサンリサ孤児院から感謝の印として、立派な盾に収まった感謝状と、
日本で協力していただいた方々へのおみやげとしてサンリサ孤児院オリジナルTシャツをいただいた。
今回のネパールでのプログラムは本当に盛りだくさん。ほぼ毎日、朝早くから夜遅くまで動き回る忙しい1週間だった。
でも、これまでのネパールでの活動の集大成と言ってもいいような、充実した1週間でもあった。ネパールでの最後のひと時も、
ゆっくり感傷に浸る間もなく大急ぎで荷造りをして、慌ただしく空港へと向かった。