'15-16冬ネパール編

 ネパール大地震発生後、年内に3回現地を訪問することを宣言しての3回目の訪問。 半年で3回訪問すると宣言はしてみたものの、本当に可能なのか、支援は集まるのか、 確かな当てもないままとにかくスタートを切ったのが昨年の5月。 特に3回目の今回は、過去2回の活動ですでに多くの方々にご支援をいただいた中で、重ねてのご支援が得られるのか、 さらに地震から半年以上が経過し、皆さんが関心を持ってくれるのか、不安の種は尽きなかったが、 カレーの会等のイベントによる収益や寄付金を合わせると、想定を超える25万円もの資金と様々な物資が集まった。 まずもってご協力いただいた皆さまに、この場を借りて心からのお礼を申し上げたい。

 今回は2012年以来となるMさんが参加。羽田発のMさんとは前回は香港の空港での待ち合わせであったが、 今回はバンコクの空港での待ち合わせ。今回も打ち合わせどおりの場所で無事合流を果たし、ネパールへ向かう。

 そのネパールの状況はと言えば、前回9月のネパール滞在中に公布された新憲法に対し、 ネパール南部のインド系住民の反対運動が激化、インド政府が国境付近の安全が確保されないとして事実上の国境封鎖を実施したため、 ガソリンやプロパンガスなどの不足が深刻化。地震からの復興に必要となるセメントなどの資材も入手困難となり、 今回の訪問時には復興はおろか、ネパール国民の誰もが日々の生活に精一杯の状況に陥る事態となっていた。多くのネパール人は、 インドの国境封鎖はネパール国内のインド系住民の抗議活動を支援することが真の目的だと理解しており、もし、 それが事実なら露骨な内政干渉ということになる。

 いずれにしても冬を迎えたネパールでは、地震による天災に国境封鎖という人災まで加わって、 ただでさえ心が痛む光景を目にすることが多いのに、寒さのために健康を害す人や中には命を落とす人まで出ていることを聞かされ、 より一層心が痛んだ。

 今回の訪問では、前々回7月に支援を行った孤児院等の3つの施設に対し、再度、日本で集めた支援金などを寄付。 さらに前々回の訪問から継続的に支援を行っている、 パタン市内ハリシッディ地区の仮設住居村の住民に対する毛布の無償配布を行ったほか、 9月訪問時に高校卒業までの学費の支援を約束した女児2人の自宅を再訪し、 日本から持参した学用品と古着のジャンパーをプレゼントした。また、大地震以降、 安全上の問題から実施は困難とされていた世界遺産パシュパティナートの一角にある老人ホームでの、 サンリサ孤児院の子供たちによる音楽会を1年3か月ぶりに開催。さらに老人たちに軽食の配布も行った。

 深刻な燃料不足により、我々自身の移動にも困難が伴う中、限られた時間内でこれだけの活動ができたのは 現地の友人たちの協力によるところが何より大きい。日本にあって活動を後押ししてくれる人たち、 ネパールにあって段取りどおり事がうまく運ぶよう奔走してくれる人たち。 この両方があってこその活動であるということを、半年で3回のネパール訪問を通して改めて強く感じた。

○日   程:2015年12月29日〜2016年1月3日
○主な活動先:@パタン市/パタンCBR、 Aバクタプル市/筋ジストロフィー・ケア・ソサエティー Bカトマンズ市/ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラム、 Cカトマンズ市/サンリサ・オーファネッジ・ネパール Dパタン市/ハリシッディ地区の被災者居住区、 Eパタン市/学費を支援中のビブティちゃん、ディニシャちゃんの自宅


パタンCBRにて@

7月以来、半年ぶりの訪問。黙々と封筒を作る子供たち。これを売って施設の運営資金に充てるそうだ。 以前出会った飾り付きのロウソクを作る子供もそうだったが、彼らの物事に取り組むときの集中力はほんと凄い。

パタンCBRにてA

この半年間でパタンCBRの状況に大きな変化はなく、この国が抱える様々な問題の影響は受けているものの、 施設の運営自体は大きな支障は生じていないとのこと。 パタンCBRには、日本から持ってきた鉛筆や消しゴム、色鉛筆、サインペン、お絵かき帳と現金3万ルピー(≒33,000円)を寄付。 寄付金は東京のNさんからの寄付金を充当させていただきました。写真をクリックすると拡大します。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて@

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーへも7月以来の訪問。施設を訪れると、毎回、 壁際に飾ってある子供たちが描いた油絵に目が行くのだが、今回は、日本の電車を描いたと思われる油絵を発見。 日本人が置いていった電車の写真を見て描いたそうだが、1両目の車両にタイヤホールらしきものが描かれているのは、 電車というものを見たことも乗ったこともない彼ら自身の想像の産物と思われる。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにてA

ここの状況にも特に変化はなく、地震前のように外部から先生を招いて絵を描いたり、楽器を演奏したり、 理学療法士の指導の下リハビリをしたりしながら日中を過ごしているそうだ。 筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにも、東京のNさんにご寄付いただいた現金の一部の3万ルピー(≒33,000円)を寄贈。

地震の爪あと@

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティー訪問を終えた後は7月と同じルートで、 バグタプル市内の地震の被害が大きかったエリアを見て廻る。
世界遺産となっている中心部のダルバール広場の状況は7月の状況からまったく変化なし。 大きく破壊された歴史的建造物はそのままの状態で放置され、崩れ落ちたレンガや柱などが付近に積み上げられている状況。 この状況がさらに放置されると、辛うじて立っている建物も壁面の亀裂の拡大や柱、屋根などの腐食が進み、 いずれ倒壊してしまうのではないかと心配になる。写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あとA

住宅街の崩壊が激しかったエリアは、道路を覆っていた瓦礫の山だけは撤去され、車の通行が可能となっていたものの、 建物の修理や建て替えはまだごく一部しか行われていない様子。ただ7月に来たときよりは人の気配が感じられ、 子供たちが道路で遊ぶ姿も見かけられた。写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あとB

このつっかえ棒が支える建物の写真は「'15夏ネパール編」にもアップしたが、 当時と比べると亀裂が広がり、建物の歪みがさらに酷くなった様子。このままでは近いうちに倒壊してしまうのではないかと思うが、 建物の1階にある商店の一部は驚くべきことに今なお営業を続けている。写真をクリックすると拡大します。

圧迫される市民生活@

冒頭に書いたとおり、インドとの国境が封鎖された状況がすでに3カ月も続いていることで市民生活は大きな影響を受けている。 ガソリンの不足により自家用車はおろか、路線バスも本数を減らして運行されており、通勤時間はどのバスも超満員。 そのためカトマンズ盆地内では禁止となっているバスの屋根の上への乗車も、今は黙認されているとのこと。

圧迫される市民生活A

曲がりなりにもプロパンガスが一般家庭にまで普及していた都市部では、国境封鎖によりプロパンガスの入手が困難となったため、 炊事は20〜30年前までは一般的だった薪によるものに逆戻り。とはいえ、薪で炊事ができるかまどが今となってはない家も多く、 金属製の薪用かまどが爆売れ中とのこと。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにて@

2012年以来、毎年必ず実施してきたパシュパティナートの老人ホームでのサンリサ孤児院の子供たちによる音楽会。 今年も7月、9月と訪問する度に音楽会開催を打診してきたのだが、実施は不可能との回答。 この老人ホームのあるエリアは世界遺産に指定されており、この老人ホームの建物もかつてはヒンドゥー教寺院の宿坊で世界遺産。 ところが大地震により建物の至る所に亀裂が入ってしまい、 大きな音を立てることがさらに建物を傷めることになるのではとの配慮から、過去2回、音楽会の開催は許可されなかった。 今回は大音響を立てないことを条件に音楽会開催が認められた。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてA

今年のネパールの冬は例年より寒い日が多く、トタン板1枚の仮設小屋で生活している老人たちにとっては、 夜の寒さは相当堪えるのではないかと想像される。一方で、日中日差しがあるとポカポカ陽気となるため、 写真の老人たちは日差しを受けて気持ち良さそうにお昼寝中。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてB

サンリサ孤児院の子供たちによる演奏が始まると、待ってましたとばかり老人たちのダンスが始まる。 いつになくノリがいいのは娯楽に飢えていたからなのだろうか。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてC

サンリサチルドレンによる今回の新たな試みは歌。 フラの歌は正直、微妙。その微妙さゆえか、他のサンリサチルドレンにはバカ受け。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてD

さらにこれも新しいパターンのサンリサガールズチームによるダンス。こちらはなかなかのもの。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてE

毎回、素敵な踊りを見せてくれていたおじいさんの姿がないので何かあったのかと心配し始めた頃、 そのおじいさんが登場。様子から察するにどうもお昼寝中だったみたいで、 踊りへの参加を促すといつものように華麗な舞を披露してくれた。
そんなこんなで約1時間半の演奏会は大いに盛り上がり、無事終了。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてF

音楽会の後は、これもいつものように軽食の配布。1袋につきバナナ1本、りんご1個、ビスケット一包、 マンゴジュース1パックを230人分セットしていく。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてG

セットした軽食入りの袋を手渡ししていく。老人たち一人ひとりと一瞬のコミュニケーションが取れる唯一の時。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてH

軽食を受け取りに来ることができなかった老人たちにはこちらから届けに行く。
軽食230人分の費用19,960ルピー、袋代700ルピー、さらに音楽会で使用したオーディオ機器のレンタル代 21,000ルピー、オーディオ機器を動かすための発電機のレンタル代4,000ルピー、発電機のガソリン代900ルピー、 サンリサ孤児院の子供たちとスタッフのバス代4,500ルピー、総額51,060ルピー(≒58,000円)は、 日本で開催したネパールカレーの会やミニバザーの収益を充当させていただきました。

サンリサ孤児院にて@

この日のプログラムは老人ホームでの音楽会のみだったので、午後からはサンリサ孤児院で子供たちとまったりとした時間を過ごす。 サンリサ孤児院創設時は4歳だったオンチューも11歳になった。当初は話しかけても言葉を発することすら出来なかったが、 今では元気いっぱいの悪がきに。でも普通の11歳に比べるとかなり体が小さいのが気になる。

サンリサ孤児院にてA

サンリサ孤児院には3万ルピー(≒33,000円)を寄付。東京のNさん、島根のKさん、 名古屋のOさんからお預かりしたお志を充てさせていただきました。

サンリサ孤児院にてB

サンリサ孤児院でもプロパンガスが入手できず、炊事はアウトドア用のガソリンコンロを使用。 孤児院の会長であるビシニュ氏の本職は登山ガイド。詳しくは聞かなかったが、 普段仕事で使っているコンロをサンリサ孤児院のために使っているものと思われる。

サンリサ孤児院にてC

夕食の時間まで、折り紙をしたり、バスケットをしたり、ゲームをしたり。時間はたっぷりあったので、 いろんなことをして遊びました。

サンリサ孤児院にてD

サンリサチルドレンたちと車座になっての楽しい夕食のひと時。ガスもなく、 停電も続く中で夕食を作ってくれたサンリサ孤児院のスタッフの方々に感謝。 お世辞抜きでこれまでネパールで食べた料理の中で3本の指に入るほど美味しかった。

サンリサ孤児院にてE

老人ホームでの音楽会で2年ぶりの再会を果たしたクマリさんはグルン族の出身。 今日はグルン族にとってのお祝いの日に当たるそうで、彼女がケーキを差し入れてくれた。
彼女の職業は看護師。大地震発生後は彼女自身も自宅に被害を受けながら、 カトマンズから被害の大きかった被災地へ派遣された医療チームに参加するなど、素晴らしい働きを見せていた。

サンリサ孤児院にてF

最後に全員で記念撮影。今年一年は彼らにとっても大変な一年だったと思うが、子供たちは何も変わることなく元気いっぱい。 その姿にはこちらのほうも救われる思いである。
サンリサ孤児院では長らくの懸案であった、間借り生活からの脱却、 すなわち自分たちの土地建物の取得に向けた結論を近々出すそうである。以前間借りしていた建物は持ち主が代わった途端、 賃料倍増を求められ、今の建物に急きょ移転。しかし、現在の建物は以前のように子供たちが表で遊ぶスペースがなく、 鶏を育てたり、野菜を育てたりするスペースもない。1、2階は日当たりも悪く、必ずしも良い環境とは言えない。 カトマンズ中心部ではここ10年ほど地価の上昇が激しく、郊外への移転も考えているようだが、彼らが今後、 どんな結論を出すのか見守りたい。写真をクリックすると拡大します。

ハリシッディ村にて@

パタン市内にありながら地震の被害が特に大きかったハリシッディ村。 7月には仮設住宅用のジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)72枚を寄付したが、最近、 この村を訪れたスニルから仮設に住む人々が冬の寒さで凍えているとの連絡が入り、今回は現地で毛布50枚を購入し、 村の人たちに配ることにした。
到着すると30人強の村人たちが、我々の到着を待っていた。

ハリシッデイ村にてA

毛布を受け取りに来たのはほとんどがご老人。スニルがあらかじめ村の代表者に連絡して、必要とする人を人選しておいて もらった人々である。

ハリシッデイ村にてB

毛布1枚程度で状況が劇的に良くなるわけではないが、少しでも寒さで体調を崩したりする人が減れば嬉しい。 毛布は中国の商品ばかりを販売しているショッピングモールで1枚1,000ルピー(≒1,100円)で購入した のだが、お店で事情を説明すると15枚おまけしてくれた。その15枚はスニルたちが支援を計画している、より状況が厳しい シンドパルチョークへ、日本から持ってきた中古の冬物衣料とともに届けてもらうこととした。

ハリシッデイ村村にてC

村の空き地に設けられた仮設住宅街は3か月前と何も変わることなくそのままの状況。寒い日には氷点下まで下がる中での ジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)1枚の仮設暮らし、あるいはテント生活がいかに過酷なものか。特に老人や小さな子供たち にとっては命に関わる問題だ。何とかして暖かくなるまで無事生きてくれと願わずにはいられない。

ハリシッデイ村にてD

地震で全半壊した建物も放置されたままの状況は全く変わらず。いつになったら復興は始まるのだろうか。 写真をクリックすると拡大します。

ハリシッデイ村にてE

唯一変わっていたのは、”復興後はこうなります”的な絵が随所に掲げられていたこと。 「分かったから早くやってくれ。」と思わず呟いてしまったが、本当にそう言いたいのはこの村の住民たちだろう。

ハリシッデイ村にてF

村を散策中、糸を紡ぐ女性と出会う。カメラを向けるといかにもネパール人的な少し恥ずかしそうな笑顔に。 その笑顔にこの女性の強さを見た思いがした。果たして自分が同じ立場だったら、こんな笑顔を見せることができるだろうか。 困難な状況下でも日常生活を淡々と送っている人々をこれまで数多く見てきた。ネパールの人たちは本当に強い。心底そう思う。 写真をクリックすると拡大します。

ビブティちゃんとの再会@

ネパール最後のミッションは3ヵ月ぶりとなるビブティちゃん、ディビシャちゃんとの再会。 ビブティちゃんは父母の離婚と父親の麻薬中毒という問題を抱え、学校へ通うのが困難となってしまったところを、 スニルの紹介で私が学費の支援を行うこととなったことは'15秋ネパール編で述べたが、 その後の状況を確認すべく、祖母と2人のおばと暮らす自宅を再訪。
初めて会った時の悲しそうな表情が強く記憶に焼き付いていたのだが、この日はすっかり普通の子供らしい表情に戻りひと安心。 今は毎日学校へ通えているそうだ。彼女には日本から持参した鉛筆、色鉛筆、サインペン、筆箱、消しゴム、鉛筆削り、ノート、 手提げバッグをプレゼント。写真をクリックすると拡大します。

ビブティちゃんとの再会A

彼女の家の家計状況を考えると、物資不足の中、十分な暖を取ることが困難となっていることを想定して、文房具の他、ジャンパーも 日本から持参。滞在中、ビブティちゃんが乾いた咳をずっとしているのが気になっていたのだが、このジャンパを着て暖かくして 冬を乗り切ってほしい。写真をクリックすると拡大します。

ディビシャちゃんとの再会@

ビブティちゃんと同じく、学費の支援を行うこととなったディビシャちゃんの自宅を訪問。 この3ヵ月間に彼女の家庭には大きな変化が。アルコール中毒で入院中だったお父さん(写真後列右)が退院して自宅に帰ってきていた。これでこの家庭は家族全員が勢ぞろい。 お父さんの話では今は仕事もしているという。スニルに言わせれば、長く続くかどうか疑わしいとのことだが、 何とか家族のために頑張ってほしい。

ディビシャちゃんとの再会A

彼女にもビブティちゃんと同じく文房具類をプレゼント。母親と祖母と暮らしていた彼女には、 もともとビブティちゃんほどの表情の暗さはなかったが、父親が戻ってさらに明るくなった様子。写真をクリックすると拡大します。

ディニシャちゃんとの再会B

これもビブティちゃん同様、ジャンパーのプレゼント。そのお礼にということでこの後、停電中でロウソクしか明かりがない中、 唯一の燃料である薪を使って、母親が目玉焼きとチャイを我々のために作ってくれた。写真をクリックすると拡大します。

ディニシャちゃんとの再会C

ディニシャちゃんが成績表を見せてくれるというので、さぞ良い成績を修めたのだろうと思いきや、 社会科が進級ラインに大幅に足りていない。ネパールの小学校は進級は日本よりずっと厳格で、 一定の成績を修めないと留年も十分あり得る。いくら高校卒業までの学費の支援を約束したからといって留年は想定外。 頼むよディニシャちゃん。

ディニシャちゃんとの再会D

彼女の家には依然として大きな亀裂が入ったまま。その後も徐々に亀裂が広がってきているそうで、 役所からは早く家を出るように言われているのだが、行き先がない状況も以前のまま。 写真をクリックすると拡大します。

後日談@

日本へ戻ってから2週間後、スニルからカトマンズ東方のシンドパルチョーク郡カミケット村にて毛布と衣料品の配布を 行ったとの報告が届く。シンドパルチョークはネパール大地震で最も多くの人が亡くなったエリアで、 もともと貧しい人が多いエリアでもある。 そこでネパールの日本語学校が加盟する団体が援助物資を届けるプログラムを開催することとなり、 日本語学校の校長でもあるスニルに、ハリシッディ村への毛布を購入する際にお店でおまけしてもらった毛布15枚と、 日本から持参した冬物衣料を一緒に届けてもらった。 毛布については彼ら自身も日本円で2万円分のお金を出し合い買い増しして配布したそうである。

後日談A

中央のお揃いのGジャンをはじめ、子供たちが着ている服のいくつかは間違いなく私が日本から持って行ったもの。 スニルが私との約束どおり、無事シンドパルチョークの人たちの基へ衣類を届けてくれたことに感謝。

後日談B

写真向かって左端に写っているロヒットが2月7日に亡くなったとの訃報が、筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーからもたらされた。 彼の描く油絵はとても素晴らしく、これまで何枚も彼の油絵をお土産に頂いた。 12月29日に会ったときも元気そうに見えたのだが。。。
過去を振り返ると2008年以降、筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーで撮影した写真には、いつも彼の姿があったのだが、 この写真が彼との最後の1枚となってしまった。Rest in peace forever. 写真をクリックすると拡大します。

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