'15夏ネパール編

 2015年4月25日、日本時間午後3:11。マグネチュード7.8の大地震がネパールを襲った。その時私は、夕方から名古屋市内で ネパール料理のパーティーを催すべく、ネパール人の友人一家とともに料理の仕込みを行っていた最中であった。 当初伝えられた震源地はインド北部とのこと。軽い気持ちで現地の友人にメッセージを送ったところ、その返信には、 彼の家の近所のお寺が倒壊し、がれきの山と化している写真が添付されていた。

 この時からテレビやネットで、被害の深刻さを伝える映像が次々と流れ始めた。一番の心配であった現地の友人たちの安否は、 地震から1週間ほどで全員の無事が確認できたものの、余震を恐れて何日間も野宿生活を強いられているとの話が 多くの友人たちから伝わってきていた。

 仮にもネパールの支援活動を15年間に亘って行ってきた私にとって、この状況を知って現地に行かないという選択肢はなかった。 何をすればよいのか、また何ができるのか、具体的なイメージのないまま、とにかく今年中に3回ネパールへ行くこと、 その1回目を7月16日から20日までとすることを様々なチャンネルを通じて宣言すると、たちまち40万円ものお金と様々な物資が集まった。

 このお金と物資を持って取るもものも取り敢えず、7月16日関空発0:30のフライトで現地へと向かった。

 今回の訪問の第一の目的は、現地の友人、知人と直接会って、無事を確認することと、現在の生活ぶりを見てくること。 第二にこれまで支援してきた施設に対し、集まったお金や物資を届けて当座の施設運営の不安を少しでも取り除くこと。 さらには、可能であれば、地震で家を失くした人々に直接の支援を行うことの3つとした。

 現地ではいつもの面々がいつもどおりの笑顔で迎えてくれた。しかし、彼らの自宅を訪れると、建物に何らかの被害を受けており、 今は余震の不安を抱えながら、被害を受けた自宅で暮らしている状況であった。

 また、街を歩くと、地震の爪痕が各地に残っており、ほとんどはまだ片付けすらなされず、地震直後と見まがうばかりの光景が広がっていた。

 同行者は2012年以来のKさん。季節外れの台風接近が伝えられる中、日本海に浮かぶ小さな島にからやってくるKさんと、 関西空港で合流できるかが旅の不安材料の一つであったのだが、これは無事クリア。ただ、出発があと半日遅かったら危なかった。

○日   程:2015年7月16日〜7月20日
○主な活動先:?パタン市/パタンCBR、 ?バグタプル市/ウダヤ小学校、 ?バグタプル市/筋ジストロフィー・ケア・ソサエティー、 ?カトマンズ市/ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラム、 ?パタン市/ハリシッディ地区の被災者居住区、 ?カトマンズ市/サンリサ・オーファネッジ・ネパール


地震の爪あと?

ウッタム、ニランジャン、スージットをはじめ、私のネパールの友人たちの多くが住む町、パタン。 この街の中心部は古い建物が多く、一部は世界遺産を構成している。被害の状況はさまざま。 完全に倒壊している建物もあれば、見た目にはほとんど損害はないような建物もある。

地震の爪あと?

カトマンズ盆地の東部にある古都バグタプル。バグタプルは古い建物が住民たちの努力によりそのままの状態で 保存されてきたこともあり、街全体としてはカトマンズやパタンより被害が大きい。 被害状況は場所によって様々だが、被害が集中しているエリアは崩壊が激しく、後片付けもほとんど行われていない状況。 写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

倒壊を何とか免れた建物にはつっかえ棒を当てて、これ以上の倒壊を防ごうとしている様子が各所で見られた。 どれほどの効果がこのつっかえ棒にあるのかは不明だが、そうしたくなる気持ちは良く分かる。バグタプル市内で撮影。 写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

家族総出で片付け中。作業はもちろん手作業。これだけの被害を受けながらも、この国では社会不安を招くような暴動や 凶悪犯罪は起きていない。ネパールの穏やかで辛抱強い国民性が、今のこの国の支えとなっている気がする。 バグタプル市内で撮影。写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

カトマンズ盆地内で最も被害が大きかったとされる場所の一つが、コカナ村。 コカナへは、2003年に一度だけ現地のNGOが運営する日本語学校を訪ねて来たことがあるのだが、 建物の多くが壊れて景色が変わってしまったのか、お寺を除いて当時を思い出せるものは何もなかった。 写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

壊れた建物などの片付けはほとんど行われておらず、ほんのさっき地震が起こったかのよう。 コカナ村にて撮影。

地震の爪あと?

村はずれにはジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)で作った仮設住宅がいっぱい。 何かこの村の人たちのために何かできることはないかと申し出たのだが、地震後、多くの個人、団体の援助が入り、 今は何も困っていることはないとのことだったので、この村での支援は取りやめとした。写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

今回の大地震では、文化財も大きなダメージを受けた。写真はチベット仏教寺院スワヤンブナートの仏塔のひとつ。 上部が崩れ落ち、残った部分も倒壊寸前。写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

街を歩くと、中国語が書かれたテントを様々な場所で見かけた。特に人通りの多い場所では必ずと言っていいほど目にする。 地震発生後、ネパールの隣国インドと中国の間で大援助合戦が展開された。その援助の裏には、お互い隣国であるネパールで 何とか自国の影響力を強めたいとの思惑があることは明らかだが、この大援助合戦により、多くの命が救われたのも事実。 実際、中国の支援に対する感謝の言葉が多くのネパール人の口から聞かれた。 ちなみにこの援助合戦の勝敗は、救助部隊の派遣の迅速さとその技量、救援活動のPRの巧妙さで中国の圧勝。 援助額はインドのほうが多かったのだけど、四川大地震などを経験した中国の救援活動に一日の長があったということだろう。 写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

カトマンズの中心、ダルバール広場(旧王宮前広場)も、多くの建造物が倒壊し、死者も出た。1908年に建てられたホワイトハウスを 思われるような欧米風の建築物も、実はレンガを積み上げて白い漆喰を塗っただけのものであることが、今回の地震で露わとなった。 写真をクリックすると拡大します。

地震の爪あと?

5〜6年前に日本のお金とハザマの施工によりで完成した、ネパール国内で最高規格の道路も、今回の地震で段差が生じてしまった。 日本政府は中国の開発援助に対抗するために”質の高いインフラ整備”を掲げているが、いくら質が高くても大地震の前には無力 ということか。

地震の爪あと?

今回の地震では、長年、一緒に活動してきた友人たちも被災者となってしまった。写真はスージットの実家の5階で撮影したもの。 スージットのご両親は、現在、この壁に大きな穴の開いた家で生活している。ウッタムやニランジャンの自宅にも亀裂が入り、 余震に怯えながら生活している状況。困難な生活を送っている彼らに対しても、お見舞金として、Tさん、Iさん、 Nさんに私のお金を加えてお渡ししてきた。写真をクリックすると拡大します。

パタンCBRにて?

今回の訪問の目的のひとつである施設援助の第一弾として、パタンCBRを訪問。ここは、小児マヒやダウン症などの子供たちに対し、 社会に適合できるようリハビリや訓練を行う施設である。

パタンCBRにて?

ここを訪問するのは2年ぶり2回目。前回、わずか1万ルピー(≒12,000円)を寄付しただけなのに、施設の壁には私の名前が 刻まれていて、少し申し訳ない気持ち。写真をクリックすると拡大します。

パタンCBRにて?

今回の訪問では、Tさん、Fさん、同行のKさんのご友人に私のお金を合わせて5万ルピー(≒6万円)を寄付。また、案内役として 来てくれたラマさんも5,000ルピーを寄付。 施設側からは、教育、子供たちの送迎、薬などにそれぞれ使用する旨、英語で書かれた紙とともに丁寧な説明を受けた。

ウダヤ小学校にて?

続いての訪問は、バグタプル市内にある生徒数わずか50名のウダヤ小学校。この小学校は2005年以来、10年ぶりの訪問。 (2005年訪問時の模様は'05ネパール編に掲載。) この小学校の校舎はレンガ造りの古い4〜5階建ての建物。周囲も同じような建物が並んでおり地震で被害が出ていないか 心配していたのだが、幸いにも被害は軽微で、この日も通常どおり授業が行われていた。

ウダヤ小学校にて?

ウダヤ小学校の児童たちには、ノート、鉛筆(2本)、消しゴムを全員に、またサッカーボール1個とバトミントンセット2セットを 寄贈。今日、学校に来ていない児童たちの分は先生にお預かりいただく。購入資金3,340ルピー(≒4,050円)は、 日本でお預かりした寄付金を充当。

ウダヤ小学校にて?

このほか学校に対しては、レポート用紙30冊、ボールペン、サインペン多数、はさみ、カッターナイフを寄付。これらは日本で 集めたもの。また、食料支援として、チョウラ(お米を潰したもの)とインスタントラーメン(焼きビーフンのようなもの)を寄付。 ネパールの小学校に給食制度はなく、弁当持参で来るのだが、特に地震以降、弁当を持ってくることができない児童が多いそうで、 弁当が持ってこれないことで学校に来なくなってしまう児童もいるという。そのような児童たちのために保存の効くこの食料を 使ってもらうこととした。購入費用2,895ルピー(≒3,500円)は、日本でお預かりした寄付金を充当。

ウダヤ小学校にて?

最後に児童、先生たちと記念撮影。地震以降、来なくなってしまった児童がたくさんいるうえに、この日は何かイベントがあるとのことで、 この日の児童の数は10人少々。地震によって来なくなってしまった児童には、それぞれ大変な問題を抱えているのだろうが、 学校に来なくなったことが更なる貧困に繋がらなければいいのだが。このような児童たちに対し、何かできることがないか考えたい。 写真をクリックすると拡大します。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて?

今回の地震で安否確認に一番時間がかかったのがこの施設。メッセージを送っても返事が返ってこないうえに、子供たちは、 ほとんど自分の意志で体を動かすことができないので大変心配していたのだが、地震から1週間後にようやく返事があり、 全員の無事が確認できた。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて?

この施設の会長さんの自宅でもあり、子供たちのベッドルームもある建物には、いくつもの亀裂が入ったまま。 しかし、今も彼らの生活スペースとして地震前と同様に使用されている。写真をクリックすると拡大します。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて?

建物全体も傾いており、傾いた側には例の”つっかえ棒”が施してあった。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて?

施設の当面の運営資金として8万ルピー(≒10万円)を寄付。 東京のNさんのご寄附を充当させていただきました。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて?

最後に全員で記念撮影。昨年は子供たちは5名(うち1名は欠席)いたのだが、一人は地震とは関係なく、病状が進行して亡くなり、 一人は、地震以降自宅に引き取られていったそうで、寂しい記念撮影となった。写真をクリックすると拡大します。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにて?

ヒンドゥー教の寺院の宿坊をそのまま老人ホームにしただけのこの施設は、建物が古いだけに地震でどのような状況になって いるのか気になっていたのだが、到着早々、いつもとは違う入口から施設へ入るよう案内される。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにて?

入口を入るといきなり目に飛び込んできたのがこのトタンで出来た大きな小屋。 地震により被害を受けた建物のうち、一番被害が大きかった棟に居住していたご老人たちが、ここで寝起きしている。 この日は日差しが強く、トタン板は熱したフライパンの底のよう。内部の暑さは半端ではない。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにて?

隣接するヒンドゥー教寺院の宿坊だった建物をそのまま活用した老人ホームは、至るところひびが入り、 また床と壁の間には3センチくらいの隙間ができていた。この建物は世界遺産の一部にもなっているため、 勝手に手を加えるわけにもいかず、ユネスコとネパール政府による修復の方針が出るのを待っている状態だそうだ。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

施設へはプラスチック椅子100脚を寄贈。購入資金67,500ルピー(≒82,000円)は、日本からの寄付金を 充当。施設側は当初、扇風機が欲しいと言っていたのだが、私より先に寄付した人がいたので、再度、施設側の要望を 聞いて椅子100脚を寄付することにした。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

このほか施設には、うちわ120枚、扇子10枚、トタン小屋の隙間を塞ぐための養生パネルを寄贈。

ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラムにて?

何人かのご老人は、私を見るなりここ3年間開催してきたサンリサ孤児院の子供たちによるミュージックプログラムのことを 思い出したらしく、ニコニコしなら踊りのふりを見せてくれてとても嬉しかった。今回はご老人たちの無事と、施設の状況を 見に来る他は物資の寄付だけで終わってしまったけど、また近いうちにミュージックプログラムが 開催できるといいなあと思う。写真をクリックすると拡大します。

ハリシッデイ村にて?

ハリシッディ村は、パタン市の南部の郊外にある村で、地震による被害が大きかった場所の一つ。 この写真のあたりでは、地震発生当時、葬儀が行われていたそうで、大勢の人が建物の下敷きになって亡くなったそうだ。

ハリシッデイ村にて?

村の空き地にはジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)で造った小屋やテントが多数設置されていた。

ハリシッデイ村にて?

この小屋の主の男性は近所の高校の校長先生とのこと。困難な状況にありながらも、我々が通りかかると表に出てきて、 にこやかに言葉をかけてくれたのが嬉しかった。写真をクリックすると拡大します。

ハリシッデイ村にて?

テント村の一画にはハングル語の幟が。韓国のNGOが1日2回、ここで炊き出しを行っているとのこと。 写真をクリックすると拡大します。

ハリシッデイ村にて?

この村にも様々な団体、個人の支援の手が入っているが、小屋を建てるためのジンクシート(亜鉛メッキ鋼板)が不足しているらしく、 波板72枚を購入して、必要としている村人に手渡すことにした。ジンクシートの購入資金80,000ルピー (≒100,000円)は日本で集めた寄付金を充当。

ハリシッデイ村にて?

後日、我々が寄付したジンク波板で小屋を建てたとの報告が写真とともに届いた。 彼らがこの困難を乗り越えて、またもとの生活を取り戻せる日が早く来ることを祈りたい。

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

サンリサ孤児院では、昨年9月の訪問以降、引越しという大きな出来事があった。 それは地震によるものではなく、前の建物のオーナーが変わり、借りていた土地建物の賃料を一方的に月額2万ルピーから 5万ルピーに引き上げると通告されたために、急きょ別の建物に移ったのであった。

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

サンリサ孤児院には、85,000ルピー(≒103,000円)と石鹸、タオル、マスクなどを寄付。 お金のほうは、同行のKさんの友人たちが集めてくれたもののほか、Tさん、Oさん、Yさんらの寄付金を充てさせていただいた。 ビシニュ会長によれば、サンリサ孤児院では、今後、土地を購入して移転する計画があるそうで、先日視察してきた候補地の一つの 写真を見せてくれたが、そこは一面の田んぼだった。カトマンズ盆地内の市街地は土地の値上がりが激しく、買うことが困難になっている のだそうだ。個人的には田舎の田んぼの真ん中では、子供たちの通学が大変だろうと思うのだが、もう少し便の良い場所で土地を手に入れる ことはできないのだろうか。

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

サンリサの子供たちと一緒にディナー。子供たちはみんな変わりなく元気。地震では数日間のテント生活を強いられたものの、 建物の被害は軽微で、今は完全に普段の生活を取り戻している。写真をクリックすると拡大します。

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

いつものようにサンリサ孤児院の子供たち、スタッフと記念撮影。 サンリサ孤児院では、地震発生後の早い段階より世界中から寄付を集め、物資を被災地へ届けたり、 医師たちの協力を得て、医療ボランティアを組織したりと、その活動には目を見張るものがあった。その活動にはサンリサ孤児院の 年長の子供たちもお手伝いとして参加しており、この経験をきっかけとして、最年長の女の子ラクパは、 看護師になるための学校に入ることを決めたそうである。 ラクパに初めて会ったとき彼女はまだ9歳で、消え入りそうな小さな声で自己紹介してくれたのを覚えている。 それがこの施設で2人の弟のお姉さんとして、また、施設の子供たち全員のお姉さんとして暮らすうちに、 しっかりとした将来像を自ら描ける逞しさを身につけたのが嬉しい。写真をクリックすると拡大します。

サンリサ・オーファネッジ・ネパールにて?

まもなく看護師としての道を歩み始めるラクパと。

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