'19ネパール編
20回を越えてまだまだ続きますネパール支援。21回目の今回は私の地元、
桑名のSさんが参加。いつも賑やかなSさんが加わったところで、いつもの珍道中にさらに拍車がかかった?
今年のネパールは6〜7月の雨期に記録的な豪雨が続き、一部地域では大きな被害が出たことが報じられていた。
その時のものかどうかは分からないが、今回訪問したマハンカル村までの道中では、至る所で土砂崩れ、
崖崩れ、鉄砲水の痕跡だらけ。もともと雨期になるとがけ崩れは多く発生するのだが、
今回は川沿いに鉄砲水で流されたと思われる集落らしき場所もあったりして、
この国でも、雨の降り方がこれまでとは変わってきているのではないかと思わざるを得ない状況も見受けられた。
○日 程:2019年9月18日〜9月23日
○主な活動先:@パタン市/ニハリカ・パブリック・スクール、ビブティちゃんの自宅、ディニシャちゃんの自宅、
Aバグタプル市/筋ジストロフィー・チャイルド・ケア・ソサエティー、
Bマハンカル村/バグ・バイラウ第2学校、
Cカトマンズ市/ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラム、
Dカトマンズ市/サンリサ・オーファネッジ・ネパール、
Eパタン市/パタンCBR
ニハリカ・パブリックスクールにて
最初のミッションは4年前から学費のお世話をしているビブティちゃんが通う学校を訪問しての、
1年分の学費の納付。
授業料の他、制服代、試験代、弁当代など合わせて56,460ルピー(≒50,000円、私のポケットマネーで対応)を、
いつものように校長室にお邪魔して納める。先生からはビブティちゃんはきちんと学校にも通っており、
成績もまずまずとのお話があった。
ビブティちゃんとの再会
ビブティちゃんの通う学校は現在試験期間中ということで生徒は全員帰ったあと。
もちろんビブティちゃんも学校にはおらず、学校訪問の後、彼女に会いに家を訪ねることにした。
アポなし訪問となったものの、ビブティちゃんと、さらには彼女のおばあちゃんとも再会を果たす。
家の中は相変わらず物が少なく、あるものもブラウン管のテレビなど古いものばかり。
4年前に訪問した時から何も物が増えておらず、ただ年月だけが過ぎたのみ。
確かこの家はお父さんが麻薬中毒にかかったことが原因で借りたお金の担保に入っていたはず。
とりあえず担保は実行されずに済んでいるものの、4年前から何も新しいものが増えていないこの家の中を見ると、
これまで同様、あるいはこれまで以上に困窮している様子が窺える。
ビブティちゃんには日本から持参した鉛筆、ノート、消しゴム、ボールペン、蛍光ペンをプレゼント。
ビブティちゃんとお祖母さんの穏やかな笑顔が見られたのは何よりの救いであった。
ディニシャちゃんとの再会
ビブティちゃんと再会した後は、もう一人学費をお世話しているディニシャちゃんに会いに彼女の自宅へ。
本当は彼女の小学校も訪問して学費を納めるつもりだったのだが、
連絡ミスで私が来るのが来週と伝わっていたらしく、
学費の納付はいつもこのプログラムをコーディネートしてくれるスニルにお願いすることにして、
とりあえず彼女の自宅前でディニシャちゃんと彼女のお祖母さんとの再会を果たす。残念ながらお母さんは仕事で不在。
彼女にも日本から持参した鉛筆、ノート、消しゴム、ボールペン、蛍光ペンをプレゼント。
彼女の自宅も相変わらず地震による大きな亀裂が入ったまま。家族の状況にも特に変化はないが、
ディニシャちゃんの背丈だけがすごく伸びた。
後日、スニルから学費のレシートとお釣りを貰うと総額73,970ルピー(≒73,970円)、Discount4,400ルピー(≒4,400円)、
支払い69,570ルピー(≒69,570円)となっていた。
70,000ルピーあれば充分お釣りがくるだろうと思いスニルに託していたのだが、
昨年は66,000ルピーだった学費の高騰ぶりに驚くとともに、学費がディスカウントできることに2重の驚き。
学費は私のポケットマネーからお支払いしました。
筋ジストロフィー・チャイルド・ケア・ソサエティーにて
ネパール2日目は、長年支援を継続中の筋ジストロフィー・チャイルド・ケア・ソサエティーへ。
ちょうど半年前、この施設の人気者だったディペシュ君があの世へと旅立った。
ちょっとおちゃめでよく冗談を言っては周りを笑顔にする青年だった。
昨年会ったときは全く元気で相変わらず冗談を言っていたので、
最初に訃報に接したときは信じられない思いであった。
残された二人が健やかで、また次回元気に会えることを心から願う。
筋ジストロフィー・チャイルド・ケア・ソサエティーには20,000ルピー(≒20,000円)を寄付。
名古屋のTさんからお預かりしたお金とカレーの会の会費の一部を充当させていただきました。
マハンカル村への道
毎年訪問先を変えながら行っている学校支援。今回はラリトプル郡マハンカル村のバグ・バイラウ第2学校へ。
カトマンズからマハンカル村へは65キロの道のり。ただ65キロといってもその道路事情はすこぶる悪く、
古いとはいえ一応ランドクルーザーをチャーターして、片道5時間かけて現地へ向かう。
途中、目についたのが数えきれないほどの土砂崩れ跡。
もともと雨期には各地で土砂崩れが発生するのだが、今回ほど数多く、
かつ酷い現場を目にしたことはなかった。
さらに土砂崩れだけでなく、鉄砲水に襲われたと思われる集落の痕跡もあり、
日本と同様に今後このような光景が常態化していくのかと考えると心が重くなった。
バグ・バイラウ第2学校にて@
この学校は2015年のネパール大地震で校舎が半壊。屋根だけ仮設のトタン板のものに乗せ換えて授業を行ってきたが、
この度、ようやく新校舎が竣工する運びとなり、
地震から5年近くがたって、今まさに地震の痛手から立ち直ろうとしている状況下での訪問となった。
バグ・バイラウ第2学校にてA
この日は実は学校はお休みだったのだが、我々が来るというので先生と全校生徒140人中90人ほどが集まってくれた。
まずは生徒一人ひとりに日本から持参した学用品を配布。
一人につき鉛筆2本、消しゴム1個、ノート1冊、多色ボールペン1本、クリアファイル1枚と、
ネパールで購入したカバンを手渡し。
文房具類の半分以上は、静岡英和女学院中学校高等学校YWCA部が全校生徒の寄付を募ったものと、
同校の同窓会が寄付してくださったもの。
これに個人でご寄附いただいたものも合わせて、欠席した子供も含めて全員に行き渡るようする配布する。
バグ・バイラウ第2学校にてB
学校にはサッカーボール、バトミントンセット、なわとび等の運動用具を寄贈。
また学校の先生たちにもレポート用紙、ボールペン、鉛筆、ハサミ、カッターナイフ等をプレゼント。
学校からは今回のプログラムのお礼として感謝状をいただいた。
バグ・バイラウ第2学校にてC
学校にはこの他ホワイトボード12枚を寄贈。
現校舎で使っているものが汚れもひどく、痛んできているので、
新校舎で使っていただくために学校側の要望により寄付することになった。
ホワイトボード12枚で50,400ルピー(≒50,400円)。その他運動用具とカバンの購入代金71,100ルピー(≒71,100円)は、
東京のNさん、岐阜のIさん、羽島のUさんからお預かりしたお金と、
カレーの会等のイベントでの募金や雑貨、ジャガイモ販売でご協力いただいた皆さまの資金を使わせていただきました。
バグ・バイラウ第2学校にてD
今日は学校はお休みということで、プログラム終了後は、春日井のYさんにご寄附いただいた小道具なども使って、
しばし子供たちと交流。
毎度のことであるが、日本製のボールペンやノートはネパールのものと全然違うので、
プレゼントすると「これなんだ。」みたいな感じで見せ合いっこが始まる。
この光景を目にするたび、はるばる日本から持ってきた甲斐があったなとしみじみ思う。
ファームステイ
マハンカル村にはホテルが1軒もないので、
バグ・バイラウ第2学校のプログラムをコーディネートしてくれたラジュクマルさんのご実家で一泊。
ラジュクマルさんのご実家はネパール山間部の典型的な農家で、
2階建ての生活スペースに家畜小屋が棟続きとなっている造り。
1階はすべて土間となっており、居住スペースの土間の端にかまどだけがあってそこで煮炊きをする。
家畜小屋では水牛、牛、ヤギ、ニワトリを飼っており、ラジュクマルさんのお父さん、お母さんは、
朝早くから家畜の世話でとても忙しそう。
また家の前の斜面は畑でトウモロコシやキュウリなどを作っており、
我々のために畑でもいできたばかりのトウモロコシを焼いて食べさせてくれたり、
搾りたての水牛のミルクを飲ませてくれた。
素朴だけど心のこもったおもてなしに感謝。
その一方で豊かさとは何かということを考えさせられた農家での一晩であった。
夜のお散歩
マハンカル村での活動を終え、昼頃再びカトマンズに向けて出発。
カトマンズのホームステイ先、ドンゴル邸に戻った後は、
近くにあるチベット仏教のお寺スワヤンブナートまで夜のお散歩。
4年前に来たときは地震で建物が激しく壊れていて酷い状況だったが、修復が進み、
ほぼ以前の姿を取り戻していた。
スワヤンブナートの境内からはカトマンズの街が一望。2000年に初めてネパールを訪れたとき、
着陸寸前の飛行機の窓から見た街の灯りは、豆電球をばらまいたようなものでしかなかったのが、
今では光り輝く宝石をばらまいたような街の灯りに激変。もうすっかり大都会の風格である。
ここにいる限りは4年前のネパール大地震が現実のことだったのかとすら思えてしまうほど。
ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにて@
サンリサ孤児院の子供たちが成長するにつれ、
いつまで続けられるかと思いつつ毎年続いている老人ホームでのミュージック&ダンスプログラム。
今年もサンリサ孤児院と子供たちのご協力を得て開催の運びとなった。
開催に先立ち、老人ホームに箒、ブラシ、雑巾、洗剤、消毒液などを寄付。
購入費用と運搬費用23,600ルピー(≒23,600円)はネパール雑貨の売上を活用させていただきました。
ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてA
いつもプログラムの会場となっていた施設の中庭は、
ネパールで猛威を振るっているデング熱の予防のため消毒液で真っ白。
塩素剤の匂いがきつくとてもこの場所でできる状況ではないため、
普段は食堂として使われているスペースを借りて開催することに。
いつも使っている中庭の一画よりかなり狭く、また細長いスペースに机や椅子が置かれている状況であったため、
机や椅子を動かして何とかスペースを確保。
ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてB
昨年は風邪のため参加できなかった笛の名手ジャヤが復活。
ディネシュとともに見事な音色を披露。この2人の笛とカラの太鼓は本当に素晴らしい。
プロとしてもやっていけるのではないかと密かに私は思っているのだが。。。
ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてC
サンリサ・ガールズチームはいつもサランギ(ネパールの伝統的な伝楽器)とバイオリンの演奏のほか、
キュートなダンスを披露。だいたいこの辺りからいつも盛り上がって、ご老人たちの飛び入り参加が始まる。
ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてD
プログラムの後半にはいつものようにご老人方がダンスで飛び入り参加。
場所が狭くてちょっと窮屈ではあったが、2時間弱のプログラムは盛況のうちに無事終了。
ミュージックプログラム開催にあたり、音響機器のレンタルに14,000ルピー(≒14,000円)、
子供たちの交通費に8,000ルピー(≒8,000円)。これらの費用にはネパールカレーの会の売上の一部や
ネパール雑貨の売上と募金を充てさせていただきました。
ランチタイム
ミュージック&ダンスプログラムの後はレストランで、
楽器の演奏やダンスで頑張った子供たちも、見守っているだけだった子供たちも、
そして事前準備や運営に協力してくれたサンリサ孤児院のスタッフたちも分け隔てなく全員でランチ。
お代の12,194ルピー(≒12,194円)は、私とSさんのポケットマネーからお支払いいたしました。
サンリサ孤児院にて@
サンリサ孤児院に移動して日本でご寄附いただいた鉛筆、消しゴム、ノート、タオル、石鹸を寄贈。
さらに広島のHさんからお預かりした36,000ルピー(≒36,000)を寄付。
その後は子供たちとしばし交流の時間。
ここでも春日井のYさんからいただいた小道具が活躍。
サンリサ孤児院にてA
サンリサ孤児院の子供たちとディナー。食材のほとんどは孤児院のすぐ隣にある畑で採れたオーガニックの野菜、米など。
最後に全員で記念撮影。この施設の一番のお姉さんで、プラ、オンチュ―の実のお姉さんでもあるラクパ。
昨年まではずっとこの場にいた彼女が看護学校を卒業後、ソーシャルワーカーとして仕事に就き、
サンリサ孤児院を無事巣立って行ったとの報告を受けた。
ネパール大地震発生直後、被害が大きかった地域での支援活動にサンリサ孤児院のスタッフが乗り出した時、
子供たちの中でただ一人活動に参加したラクパ。いかにも彼女らしい進路を選択したなと思う。
初めて会ったときは男の子かと思うほど髪の毛を短くていて、
何かに怯えたような表情をしていたラクパが立派に独り立ちしたことは本当に嬉しい限り。
サンリサ孤児院も設立から12年が経ち、ラクパに続く年齢の子供たちも大勢いるが、
彼女のように一人ひとりが目指す道を見つけてくれることを願いたい。
パタンCBRにて
ネパール最終日。空港へと向かう道すがら、パタンCBRを訪問。
いつもだと子供たちが障害の状況に応じて、リハビリであったり、勉強であったり、
ハンドクラフトづくりに取り組んでいる様子が見られるのだが、今日は施設がお休み。
残念ながら子供たちとは会えなかったが、私たちのためにスタッフとスタッフの息子で、
この施設でリハビリに取り組んでいる青年が一人集まってくれた。
パタンCBRには、兵庫のYさんからお預かりした10,000ルピー(≒10,000円)と学用品、石鹸、
タオルを寄贈しました。