'17ネパール編

 ちょうど1年ぶりとなる19回目のネパール。

 ネパール初訪問以来、毎回活動を共にしてきたウッタムが昨年末にアメリカに移住し、今回からは彼がいない中での活動となる。 もはや国の違いなど関係なく、真の友と呼べる存在であったウッタムがいないのは寂しいが、 実務上もネパールでの日程や訪問先、活動内容は毎回彼と相談しながら決めており、これまで積み重ねた暗黙事項も多かっただけに、 活動そのものに影響が出ないかという懸念もあった。 しかしながら代役のスージットも初回からずっと活動を共にしてきた仲。 ウッタムも時折アメリカからアドバイスを送ってくれたこともあり、これまでどおりスムーズに段取りすることができた。

 ネパールの状況にこの1年間で大きな変化は見られず、地震からの復興もあまり進んだ様子はなかった。 唯一、大きく変わったことといえば停電がほとんどなくなったこと。 技術者が担当大臣になったことで停電が劇的に減ったのだそうだが、 何をやったのかといえば地方で余っていた電力をカトマンズ盆地に回すよう指示しただけという。 そんな簡単なことで停電が解消できるのなら何で今まで誰もやらなかったのかと言いたくなるが、 これこそがネパール政府の現状なのである。

○日   程:2017年9月17日〜9月23日 ○主な活動先:@パタン市/ニハリカ・パブリック・スクール、ホライズン・イングリッシュ・スクール、ディニシャちゃんの自宅、 Aパタン市/パタンCBR、 Bバグタプル市/筋ジストロフィー・チャイルド・ケア・ソサエティー、 Cラメチャープ郡ゲル村/パシュパティ・ベーシックスクール、 Dカトマンズ市/ソーシャル・ウェルフェア・センター・ブリダシュラム、 Eカトマンズ市/サンリサ・オーファネッジ・ネパール、 Fカトマンズ市/プラナバナンダ・アシュラム・ネパール


ビブティちゃんとの再会@

2年前から学費のお世話をしているビブティちゃんの3年目の学費を納めに彼女の通う小学校へ。11歳になったビブティちゃんは この1年で急に大人っぽくなった印象。この日は学園祭だったそうで、着ているドレスはみんなで一緒にダンスを踊った時のもの。
ビブティちゃんのとなりに座っているのは彼女のお父さん。 麻薬中毒になり一家離散とビブティちゃんが学校に通えなくなる原因を作った張本人。 治療のため長らく入院していると聞いていたが、今回初めてお会いした。
このお父さん、一見健康そうに見えるのだがやはりまだ仕事はせずに毎日ブラブラしているとのこと。 彼の母親(ビブティちゃんの祖母)は、彼の麻薬中毒の治療のために背負った借金がいよいよ返せなくなり、 家を売ろうか悩んでいるという。 そんなお父さんだが、ビブティちゃんの表情を見ていると彼女がお父さんのことを好きなのが伝わってくる。 家庭内の問題には首を突っ込まないことを自分の中で決め事としているのだが、 早く仕事に就いて家族を支えてあげて欲しいと強く願わずにはいられない。

ビブティちゃんとの再会A

ビブティちゃんの学校には彼女の1年分の学費47,000ルピー(≒49,000円、私のポケットマネーで充当)を納付。 去年より大幅に金額がアップしているので理由を聞いてみると、彼女は現在お母さんの家からスクールバスで通学しており、 その費用が加算されてこの金額になっているとのこと。校長先生はこの他にもビブティちゃんの学校での勉強ぶりやエピソードなど、 親でもない私の質問にも一つ一つ丁寧に答えれくれてとてもありがたい。
ビブティちゃんには他に鉛筆、消しゴム、ノート、メモ帳、色鉛筆をプレゼント。 またTさんから、借金返済のため働きに出ている彼女の叔母2人に渡してほしいと託されたストールを手渡した。

ディニシャちゃんとの再会@

同じく学費のお世話をしているディニシャちゃんの学校へも学費を納めに行くことになっていたのだが、 時刻が遅くなってしまい、もう先生も帰ってしまったとのことで、ディニシャちゃんの自宅へ。
彼女の家も相変わらず地震直後のまま。大きな亀裂の入った家の2階で家族の暮らしぶりなどを伺う。 アル中のお父さんは依然として仕事はしていないらしく、お母さんが絨毯工場で働いて家族を支えている。 また、おばあさんは体の具合があまり良くないらしく、病院で診てもらうにもお金がないので辛抱しているとのこと。 そんな厳しい状況に置かれた家族だが、ディニシャちゃんの話になると表情が緩むのが何よりの救い。
ディニシャちゃんには鉛筆、消しゴム、ノート、メモ帳、色鉛筆をプレゼント。

ディニシャちゃんとの再会A

翌日、学費を納めにディニシャちゃんの学校へ。1年分の学費55,346ルピー(≒57,500円、私のポケットマネーで充当)を納付。 こちらも昨年から大幅に金額が上がっているのだがその理由は学校で弁当を食べているからとのこと。 昨年までは昼休みに家に帰って食事をしていたはずだが、お母さんは働いているしおばあさんも具合が悪いので そうせざるを得なくなったらしい。
最後に校長先生、ディニシャちゃん、ディニシャちゃんの両親と記念撮影。

パタンCBRにて

昨年は予算と日程の都合から訪問することができなかったパタンCBRを1年9カ月ぶりに訪問。 久しぶりの訪問も見覚えのある面々に迎えられ、この施設でリハビリに取り組んでいる子供たちとしばし交流。
パタンCBRには鉛筆、色鉛筆、ハサミ、カッターナイフ、糊、自由帳と30,000ルピー(≒30,600円)を寄付。 お金のほうは名古屋のNさん、東京のNさん、岐阜のIさんからお預かりしたお金と私のポケットマネーを充当させていただきました。

筋ジストロフィー・ケア・ソサエティーにて

ここ10年近く毎年訪問している筋ジストロフィー・ケア・ソサエティー。今年も無事3人の子供たちと会うことができた。 特に変わったこともなく、毎日油絵を描いたり、理学療法士の訪問を受けてリハビリに取り組んだりしているとのこと。
この施設には30,000ルピー(≒30,600円)を寄付。名古屋のNさん、東京のNさん、稲沢のTさん、名古屋のTさんからのお金を 充当させていただきました。

日本の貢献、進まぬ復興

ネパール大地震直後には至る所に見られた中国語が書かれたテント。さすがに今は見かけることはほぼなくなり、 代わって目にするのはやはり日本の支援。もともと日本からの支援は地震以前からかなりあったのだが、 地震直後の中国などからの大量のテントや支援物資の中に埋没。今はそれらが取り払われて、再び目にする機会が増えた気がする。
地道で息の長い支援は日本が得意とするところ。それはそれで結構だと思う。 パタンの王宮広場にある地震で壊れた寺院の周りにも復旧に向けた足場とフェンスが組まれており、 そこにも日の丸の付いた看板が掲げられている。だけどこれは昨年も目にした光景。 残念なことに復旧作業が始まった気配は全く感じられない。 パタンの王宮前広場は世界遺産に指定されているので慎重にやろうとしているのは分かるけど、もう少しスピードアップできないだろうか。 この分では地震で被災したカトマンズ盆地内の主要な文化財を修復するだけでも10年では済まない気がする。 観光が命のこの国にとってそれは痛すぎると思うのだが。

ゲル村への道

今回の学校支援は、スニルの紹介で地震で大きな被害を受けたラメチャープ郡ゲル村のパシュパティ・ベーシックスクールで行うことに決定。 ラメチャープ郡の郡都マンタリから先はかなりの悪路となるため、今回は四駆をチャーターしたのだが、 途中、岩と石ころだらけの坂道を登るのに悪戦苦闘。まあ毎度のことなので驚きはしませんが。。。

パシュパティ・ベーシックスクールにて@

パシュパティ・ベーシックスクールに到着すると、校長先生や子供たちがお出迎え。 山の中の絵にかいたような小さな小学校。生徒の数は198人いるそうだが、 この日はダサイン(ネパールの正月のようなもの)1日前のため、半分ぐらいの生徒しか登校してきていない。

パシュパティ・ベーシックスクールにてA

パタンで日本語学校を経営しているスニル。そのスニルが会長を務めているネパール日本語学校協会の寄付により建てられた仮設校舎。 ネパール大地震により校舎の一部が使用不能となり、スニルたちが20万ルピー(≒21万円)を寄付して急ごしらえで造ったものなのだが、 本校舎の再建はまだ手付かずで、地震から2年経った今も仮設校舎を使用中。竹で造った壁は隙間だらけで、冬場は相当寒いはず。

パシュパティ・ベーシックスクールにてB

仮設校舎はできたものの、低学年の子供たちは修理した本校舎で床に座り込んで授業を受けているので、 テーブルと座布団を寄付してはどうかというスニルの提案を受け、テーブル6脚、ホワイトボード1枚、座布団44枚を寄贈。 このうちテーブルと座布団40枚は事前にパタンの職人さんに発注して作ってもらったもの。(座布団4枚は日本から持参)
テーブル36,000ルピー(≒37,000円)、ホワイトボード4,000ルピー(≒4,200円)、 座布団40枚28,000ルピー(≒29,000円)は名古屋のHNさん、SHさん、東京のNさん、 名古屋のMNさんからお預かりしたお金を活用させていただきました。

パシュパティ・ベーシックスクールにてC

例によって校長先生をはじめ村のリーダー、その他関係各位の挨拶(演説?)が始まる。私も挨拶を求められ、 @学生、先生、ゲル村の皆さまに会えて嬉しく思うこと、Aこの学校の生徒のためにテーブルや学用品などをたくさん持ってきたこと、 Bこれらの購入資金は、日本の多くの方々が学生たちの学ぶ環境が少しでも良くなることを願って寄付してくれたものであること、 C学生の皆さんには一生懸命勉強して立派な大人になって欲しいこと をお伝えした。

パシュパティ・ベーシックスクールにてD

ひと通り挨拶が住んだ後は女子学生4人によるダンスの披露。これで終わるのかと思いきやまだ進行役の先生の長いお話が続き、 小さな子供たちはかなり退屈気味。私もこんな儀礼的なことはさっさと終わりにしたいのだが、大人の世界はいろいろ面倒くさい。

パシュパティ・ベーシックスクールにてE

長い挨拶が終わり、ようやく学用品の配布となる。学生たち全員に鉛筆2本、消しゴム1つ、ノート1冊、下敷き1枚を配布。 今日欠席している学生の分は先生に預かってもらう。学用品は日本から持参したものにこちらで買い足したもの。

パシュパティ・ベーシックスクールにてF

学校へはこのほかバレーボール2個と先生用にレーポート用紙、手帳、鉛筆、多色ボールペン、はさみ、カッターナイフを寄贈。 生徒たちへ配布した学用品の買い足し分とバレーボール2個の費用8,960ルピー(≒9,500円)は東京のNさん、 名古屋のMNさんからの寄付金を充当。
また名古屋のHさんからお預かりした英語で書かれた絵本も一括して寄贈させていただきました。 寄贈するにあたっては、この絵本はとても素敵な本なので職員室に置きっぱなしにせずに、 ぜひ子供たちに手に取って読んでもらえる状態にしていただけるようお願いしてきました。

パシュパティ・ベーシックスクールにてG

低学年の学生用に寄付した座布団には長く使ってもらえることを願って、丈夫なカバーを付けて寄付しました。
またこの学校での活動に個人的に大きなご支援をいただいた5人の方にお礼状を書いていただくよう事前にお願いしたところ、 額縁まで付けて用意してくれました。

迫りくる氷河湖決壊の脅威

ラメチャープ郡の郡都マンタリ市のすぐ脇を流れるタマコシ川。そのタマコシ川のほとりには緑鮮やかな水田が広がっている。 あまり緑豊かとはいえない山々、その谷間をタマコシ川の灰色の水が流れている中にあって、 この緑鮮やかな水田はひときわ美しい。
しかしこの美しい風景の裏には恐ろしい現実が隠されていることを現地の方から聞かされた。 このタマコシ川、多くのネパールの大河と同じようにヒマラヤの氷河が水源となっているのだそうだが、 温暖化の影響により氷河の末端が溶けて巨大な氷河湖が今まさに形成されつつあり、 その氷河湖をせき止めている天然の土手がいずれその水圧に耐え切れなくなって崩壊、 巨大な鉄砲水がこの谷筋を襲うことが確実視されているのだという。
ネパール政府もその危険を認識しており、氷河湖の土手にセンサーを設置して、 もし土手が崩壊した時にはこの谷筋一帯にサイレンが鳴り響くようにしてあるという。 しかし氷河湖崩壊からこのマンタリ付近に鉄砲水がやってくるまでに猶予された時間はわずか25分。 25分では自分ひとりが高台に逃げるのに精一杯の時間しかないだろう。 お年寄りや子供には逃げ切ることは難しいのではないか。
タマコシ川のほとりの緑美しい水田とは対照的な恐ろしい事実に哀しい気分になった。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにて@

毎年恒例となったパシュパティナートにある老人ホームでの、サンリサ孤児院の子供たちによる音楽とダンスのプログラム。 子供たちによる楽器の演奏はもう手慣れたもの。唯一今回から変わった点は、 今まで大人がやっていたMCをサンリサ孤児院最年長のラクパがやったこと。 これにより大人は設営などの裏方に専念することとなり、会のはじまりから終わりまでは子供たちだけで取り仕切ることとなった。
ラクパのMCは最初はなかなかだったものの、最後がちょっとグタグタ。見ていた側は私も含め「え、終わったの」 みたいな感じになってしまったけど、まあ頑張ったからいいでしょう。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてA

MCはちょっとグタグタだったけど、ラクパは最初見ていただけけだったご老人たちに踊りを勧めるなど、会の盛り上げに大貢献。 ネパール大地震では、サンリサ孤児院が中心となって組織した医療ボランティアに自ら進んで大人たちに交じって参加したラクパ。 それがきっかけで看護師の道へと進むことを決断し、今、看護学校に通っている彼女を見ていると本当に成長したなと思う。 10年前に初めて会ったときは、口数少なく不安げな目をしていた彼女が、弱者への思いやりや、 人と関わることへの積極性を見せるようになったことは私にとってもすごく嬉しい。
日本語も少しだけ習ったそうで、あいさつ程度はできるようになったラクパ。今後の彼女の更なる成長に期待したい。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてB

会の後半はいつものサンリサ・ガールズユニットによるダンス。このダンスに一人のおばあちゃんが飛び入り参加。 このおばあちゃん、腰がほぼ90度曲がってしまっているだが足腰は至って丈夫らしくノリノリで、 時に奇声を上げたりしながら、踊っているガールズユニットの前で独創的なダンスを披露。 さらにこの状況にじっとしていられなくなったのか、 サンリサ孤児院の会長さんの1歳の赤ちゃんがダンスに参加したりと想定外の出来事が続発。 子供たちはこの状況にやや困惑しながらも、最後まで素晴らしいダンスを披露してくれました。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてC

今回もご老人たちには大変喜んでもらえました。プログラム開催のためにレンタルしたアンプやスピーカーのレンタル代14,500ルピー (≒15,500円)は、ネパールカレーの会の会費の一部とネパール雑貨の売上を活用させていただきました。

ソーシャル・ウェルフェアセンター・ブリダシュラムにてD

いつもだと音楽会終了後に軽食の配布を行うのだが、この1年の間に、 ボランティアが配布した食事を食べた老人がお腹をこわすという事件があったそうで、 ホームの方針として直接老人たちに食事を配ることは禁止にしたとのこと。 直接手渡しできないのは少し残念だが、今回は米などの食材を買って寄付することとした。
寄付したのはお米50s、ダルスープ用の豆60s、砂糖50s、紅茶3s、ビスケット200パック、 チョウラ(水でふやかした米を潰して乾燥させたもの)50s。 これらの運送費用も含め、かかった費用32,350ルピー(≒35,000円)は、 ネパールカレーの会の会費の一部とネパール雑貨の売上を活用させていただきました。

サンリサ・ニューホームにて@

創立から11年目になるサンリサ孤児院。最初のホームは一軒家の2階ワンフロア―でスタート。 翌年、別の場所に移って一軒家を丸ごとレンタル。オーナーのご厚意で賃料は格安。 さらに隣りの空き地を無料で農園として使わせてもらえるなど恵まれた環境で数年間を過ごしたものの、 オーナーが代わると賃料倍増を言い渡され、やむなく近くの店舗兼住宅だった空き家に再度移転。 グランドはおろか庭もない環境で、子供たちの遊び場は屋上のみ。ネパール大地震では幸いほとんど被害はなかったのの、 自前の施設を持つことがここ数年のサンリサ孤児院の悲願となっていた。
ビシニュ会長が資金集めに奔走し、ようやく今年7月に悲願の自前の新しいホームが完成。 土地も建物もサンリサ孤児院の保有。もう引越しを迫られることもない安住の地をようやく手に入れた。
そのニューホームに今回初めて訪問。ホームの前ではサンリサ孤児院で飼っている合鴨の雛たちがお出迎え。

サンリサ・ニューホームにてA

新しいホームは鉄筋レンガ造りの3階建て。1階が食堂とバス・トイレ。2階が男女別の子供たちのベッドルーム。 3階が会長さんの執務室兼書類保管室とゲストルーム(子供が熱を出したりしたときに隔離する部屋も兼ねる)と倉庫。 屋上には2つ前のホームから屋上にあったソーラー発電機が新しいホームにも持ち込まれていた。 まだ3階の内装や荷ほどきなどは100%終わっておらず、一部雑然とした様子もまだ残っているが、 陽当りもよく、空気も良く、とても静かで、街の中心から遠いことを除けばとても良い環境である。

サンリサ・ニューホームにてB

新しいホームのすぐ隣は格安でレンタルできたサンリサ孤児院の田んぼと畑。 ここで採れる無農薬のお米や野菜、さらに合鴨の卵をみんなで食べるとともに、子供たち自身でも農作業を行い、 学びの場にもするのだそうだ。この取り組みは2つ前のホームでも隣地で実践していたこと。 昨年までのホームではその敷地がなかったが、悲願のホーム取得と共にサンリサ農園も復活。水田の稲穂はもう刈り入れ間近。 この農園の作物で半自給自足を達成する日も近い。

サンリサ・ニューホームにてC

サンリサ孤児院では午後ののんびりとした時間を子供たちと過ごす。
ここで数年前から少し気になっていたことをスージットに聞いてみた。創立時時からこの孤児院にいるオンチュ―。 初めて会ったときは4歳だったので今14歳のはずなのだが、どうみても14歳にしては身体が小さい。 それも少々小さいレベルではない。4歳の時の彼のイメージとあまり変わっていないのである。声変わりもしていない。 スージットの話では、お母さんのお腹の中にいたときに栄養が十分に摂れずに、 未熟児で生まれてきた影響が今も尾を引いているのではないかとのこと。
さらにオンチューの生まれを聞いた流れでほかの子供たちのことも聞くと、 マオイスト(毛沢東主義派といわれる10〜20年前に武装闘争をしていたゲリラ)に親や兄弟、 親戚を殺された子供が何人もいるなど、10年目にして初めて子供たちの悲しい過去を具体的に知ることとなった。
思い返せば、孤児院創立当時、子供たちはみんな無口で不安げな目をしていた。 今はすっかり元気になって普通の子供と変わらない様子だけど、心の中はどうなのだろうか。

サンリサ・ニューホームにてD

サンリサ農園で採れた野菜を使った子供たちと共にダルバート(カレー定食)をいただく。
今回は私のほかに日本人がもう一人。会社を休職してスニルの日本語学校をお手伝いしながら、 新しいビジネスの芽を探しているHさんをパシュパティナートでの音楽会にお誘いし、 そのままサンリサ孤児院までご一緒することに。
すごくオープンな性格の彼はサンリサの子供たちともすぐに仲良くなった。 年末までネパールに滞在し、ビジネスの可能性を探る予定とのこと。彼の成功を祈りたい。

サンリサ・ニューホームにてD

サンリサ孤児院には70,000ルピー(≒82,000円)を寄付。兵庫のYさん、岐阜のIさん、名古屋のTさん、稲沢のTさん、 名古屋のTさん、名古屋のNさん、東京のNさんからお預かりした資金を寄付させていただきました。
ビシュヌ会長の話では、今回の新しいホームの敷地の購入と建物の建築で、これまでの蓄えはすべて使い切ってしまったという。 この7万ルピーで今年のダサイン(日本のお正月のようなも)では諦めていた子供たちの新しい洋服を買うそうだ
最後に全員で記念撮影。新しいホームでの新たな歩みがどうなるのか引き続き見守っていきたい。

プラナバナンダ・アシュラム・ネパールにて@

最後のミッションは、スニルの紹介で今回初めて訪問するプラナバナンダ・アシュラム・ネパールでのプログラム。 この施設は孤児院なのだが驚くべきはその規模。ここで暮らす子供たちは総勢200人。 なんと施設内に小学校を完備する大規模な孤児院である。
1996年に創立。2002年に現在の場所に移転し、さらに建物を増築し、今の形となった。 スポンサーにはネパールの大臣経験者や国会議員、インドの有力者などお金持ちをがっちり掴んでいる様子。 教室の入り口には多額の寄付をした方々の名前がつけられていた。

プラナバナンダ・アシュラム・ネパールにてA

この孤児院と学校ではヒンズー教に基づく教育を実施。 建物内には瞑想室もある。
この施設には運営資金として20,000ルピー(≒21,000円)を、この日の子供たちの昼食代として15,000ルピー(≒15,800円)を寄付。 運営資金には清州のHさんの寄付金と私のポケットマネーを充当。昼食代は私のポケットマネーで対応。

プラナバナンダ・アシュラム・ネパールにてB

この後、私が寄付したお金での昼食が用意され、子供たちの前で今日の昼食を私が寄付したことを紹介される。 この後スニルと私も子供たちに交じって昼食をいただいた。

ネパールでのお花見を夢見て

孤児院の後は、引き続きスニルの案内で、 ネパール日本語学校協会のメンバーが主体となり2年前に植樹したというソメイヨシノを視察。1本ごとに金属製の囲いを付け、 毎月草刈りをするなど大切に世話をしているのだが、 すぐ隣を流れる川の浚渫土が積み上げられてすぐ近くで山になっており、 一部の若木が枯れてしまっているという悲しい状況。スニルたちが工事業者や役所に抗議するも埒が明かず、 次の策として、植樹式に日本大使が参加したのを利用して日本大使の植樹記念碑を建て、 何とか桜の木を守ろうと画策中とのこと。 桜の花が咲くようになりなれば多くの人々の目に留まるようになり、このような扱いはなくなると思うのだが、 それまでが大変だ。
いつの日かここで満開の桜の下に多くのネパール人が笑顔で集う日が来ることを夢見てこの場を後にした。

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